明治維新後、初代県令・三島通庸によって、現在の文翔館周辺に当時の先端を行く洋風建築物や新道などがつくられ、山形市は県都として近代化が急激に進みました。明治27年(1894)と同44年(1911)の大火などによって、多くの建物が消失しましたが、明治初頭の戊辰戦争や昭和時代の第二次世界大戦時の空襲などの大きな戦禍がなく、また天災が少ないなど、基本的な街の構造が保たれています。このため現在も国指定の重要文化財を含む歴史的建造物が多数残され、異なる時代のものが混在しています。
譜代大名でも小藩の山形藩は、幕末の戊辰戦争で大きな役割を演ずることはありませんでしたが、約半年にわたって戦争に巻き込まれました。山形は主たる戦場にはならなかったものの、戦争が始まると町の商店は店を閉じ、周辺の村へ疎開するなど大騒ぎになっていました。町人・農民には軍需物資の輸送などのため臨時負担が課せられ、戦争犠牲者も20人余りを数えたといいます。奥羽越列藩同盟に加わった山形藩は、戦後処分として家老の水野三郎右衛門元宣公が全責任を負った形で新政府によって処刑されました。水野家ゆかりの桜町・豊烈神社境内に元宣公の銅像が建っています。その銘記には次のように記されています。
「水野三郎右衛門元宣は、天保14年(1843)遠州浜松に生まれ、藩主のお国替えにより弘化3年(1846)4歳のとき山形に移住し、22歳の若さで家老職を継いだ。文武両道にすぐれ家中藩士の信頼を一身に集めた。明治維新の政変の際、藩主は京都に居って不在のため、藩の運命は若干26歳の首席家老元宣の双肩にかかっていた。慶応4年春、薩長軍(官軍)は仙台から山形に進入し、山形藩は官軍の命を受けて庄内征伐のため長崎口まで進撃したが、荘内軍の不意の襲撃に合い損害を受けて敗走、戦火は山形市街地の目前に迫った。元宣は領民を救うため苦心惨憺身を挺して奔走し、山形市民を兵火の災害から救った。
山形藩は当初官軍についたが、薩長軍の参謀世良修蔵の横暴さに憤慨した仙台、米沢の両藩の呼びかけに応じ、東北各藩とともに奥羽同盟を結成し官軍に反抗することとなった。しかし間もなく各藩相次いで降伏することとなり、新政府から反逆の罪に問われた際、元宣は「山形藩の責任はすべて自分一人にあり、他の者には寛容の御処置を」との嘆願書を提出し、他に犠牲者を出さないよう努力した。翌明治2年5月20日、藩の責任を一身に背負い27歳を最期に長源寺庭において刑死した。
明治維新当時の山形藩は5万石であったが財政は苦しく十分な武器の備えもない状況の中で、官軍と隣接大藩との板挟みに合い、山形藩をいかに保全するか元宣の苦悩は大変なものであった。明治維新改革後、山形市が米沢・新庄の大藩をさしおいて県庁所在地となり、今日の繁栄あるのは元宣が身をもって難に殉じ、山形の町を兵火の荒廃から救ったためであり、まさに山形市民の大恩人と称すべきである。
元宣の遺徳を後世に伝えるため、旧藩士をはじめ市民有志により明治35年銅像を建立したのであるが、昭和18年第2次世界大戦完遂のため供出されたので、昭和21年に郷土の彫刻家服部午山の作による現在の塑像が再建されたのである。」
明治4年(1871)、全国一斉に廃藩置県が断行され、山形県は大きく山形・置賜・鶴岡の三県となり、さらに下って明治9年(1876)三県が合併して統一山形県となります。耕地面積・人口ともに最大の山形の名称をとり、県庁所在地とし、初代県令・三島通庸が任命されました。
統一山形県の県都となった山形市には、明治政府が進める中央集権化、また近代化政策の中核となる道路、馬見ヶ崎旧河川跡にある万日河原に県庁舎、南村山郡役所、県警本部などの官庁街や庶民の憩いの場の性格も持つ、60,000坪にも及ぶ山形県第二勧業試験場千歳園などが整備されました。
明治11年(1878)、イギリスの女性旅行家イザベラ・バードが、東北旅行で現在の山形市に7月中旬に到着し、その印象を「日本奥地紀行(1880初版)」のなかで、「山形の県都で、人口21,000の繁昌している町である。少し高まったところにしっかり位置しており、大通りの奥の正面に堂々たる県庁があるので、日本の都会には珍しく重量感がある。」、「山形の街路は広くて清潔である。」、「政府の建物はふつう見られる混合の様式であるが、ベランダをつけたしているので見ばえがする。県庁、裁判所そして進歩した付属学校をもつ師範学校、それから警察署はいずれも立派な道路と町の繁栄にふさわしく調和している。大きな二階建ての病院は、丸屋根があって、150人の患者を収容する予定で、やがて医学校になることになっているが、ほとんど完成している。非常にりっぱな設備で換気もよい。」と紹介しています。
当時の山形県令で「土木県令」の異名を取った三島通庸の、道路や建物の精力的な整備により、近代的な都市として着実に発展しつつあった様子が、この記述からも随所に伺えます。
江戸期の城下町など家屋の密集したところでは、頻繁に火災が発生したようですが、市の歴史に残る最大の火災は明治27年(1894)5月の市南大火と、同44年(1911)5月の市北大火と呼ばれているものです。市南大火は蝋燭町を火元とし、強風によって火の手は四方に広がり、約10時間燃え続け十日町、八日町、三日町、小姓町など市街南部を中心に17町に被害が及ぶものでした。消失したのは本家数だけで1,608戸を数え、炊き出しや義援金を受ける罹災者は数千人にのぼったとされます。
市北大火は、市南大火より17年後のことです。山形市恒例の薬師祭の5月8日に発生し、七日町、旅籠町、六日町など6町にわたって民家1,300戸を焼いたばかりでなく、官庁街として整備された県庁、警察署、市役所、図書館、山形中学校なども消失しました。七日町で類焼を免れたのは旭座と数カ所の土蔵などで、猛火の最中は避難の場もなかったほどの惨状だったといわれます。
この2度にわたる大火によって多くの建物が消失しました。
山形の大正時代は市北大火の復興から始まったといえるでしょう。消失した中心市街地の核となる「山形県庁及び県会議事堂」が耐火建築として建設され、3年あまりの工期で大正5年(1916)に完成しました。レンガ造りで一部鉄筋コンクリートを使用し、イギリス・ルネサンス様式を基調にした建物で、設計は米沢出身の中條精一郎を顧問として東京都出身の田原新之助が担当しました。昭和50年(1975)まで県庁として使用されてきましたが、新県庁の建設とともにその役割を終え、昭和59年(1984)に国の重要文化財に指定された後、昭和61年(1986)から10年かけて修理工事をし、平成7年(1995)9月に山形県郷土館「文翔館」として完成したものです。当時の工法で忠実に復原された重厚な建物は大正の古き良き時代の薫りを今に伝えています。
「旧済生館本館」は明治9年(1876)県令・三島通庸の病院新築の大構想のもとに計画され、明治11年(1878)に完成しました。正面に三層楼が立ち、両翼に伸びる回廊は14角のドーナツ形をしています。上から見ると指輪のようであり、明治初期における木造下見張りの擬洋風建築の傑作といわれています。昭和41年(1966)に重要文化財に指定、同44年(1969)霞城公園に移設して、現在は山形市郷土館として文化財保存の活用を図っています。
中には済生館本館資料、郷土の医学医療関係資料、特に明治13年(1880)から約2年間在住し、山形市の医学の発展に大きな功績を残したオーストリアの医師アルブレヒト・ローレツ博士の資料などが展示されています。
「旧山形師範学校本館」も教育を重要施策としていた県令・三島通庸が山形県師範学校として明治11年(1878)創設したもので、その後校舎が狭くなり同34年(1901)に旅籠町から緑町の現在地に新築されました。ルネサンス様式を基調にした木造瓦葺き2階建てで、左右対称形の美しさを持ち、正面中央には玄関ポーチと塔屋を設け、屋根の中央には櫛形、両端には切妻形の飾り破風がつけられ、洗練された印象を生み出しています。戦後、山形大学教育学部や山形北高校を経て、昭和48年(1973)本館、その後正門、門衛所が国の重要文化財に指定され、同55年(1980)県立博物館分館・教育資料館として開館しています。夏目漱石の「坊ちゃん」に出てくる校長タヌキのモデルが松山中学校赴任前にここの教頭であったことは案外知られていませんが、国際法で有名な安達峰一郎も師範時代の予科生でしたし、直木賞の藤沢周平もこの師範学校を巣立ちました。
また、近くには「旧山形師範学校講堂」も現存しています。
ほかにも昭和2年(1927)に完成した県下初の鉄筋コンクリート造の校舎「山形市立第一小学校」は、関東大震災後に復興された東京の小学校建築と類似しており、耐震構造学の権威佐野利器の理論が反映されています。半円形や三角形、曲線と鋭い直線の組み合わせによる力感的なデザインは1920年代に流行したドイツ表現主義やアール・デコの影響が色濃く出ている建物です。
現在では映画をはじめ音楽やアート、デザイン、伝統工芸、食文化など様々な分野で優れた地域資産を持つ創造都市やまがたの共創プラットホーム「やまがたクリエイティブシティセンター Q1」として公開されています。
民間では大正4年(1915)に再興された擬洋風建築の料亭「旧千歳館」や、昭和2年(1927)に完成した県内初の鉄筋コンクリート造り店舗「旧市島銃砲火薬店」、明治43年(1910)に建てられた急勾配の切妻屋根をもつ北側妻面に鐘楼の塔を配し、外壁は下見張りという印象的な外観を持つ「山形聖ペテロ教会」、米沢市出身で日本最初の建築史家・伊藤忠太設計で、鼓楼と鐘楼が左右対称に並ぶ正面を持つ「明善寺本堂」など、特徴ある建物があり、土蔵造りの店舗や和風住宅と混在して山形の街並みが形成されています。
記号 | 山形縣新築之圖に 描かれている建物 |
市北大火前の建物 | 市北大火後 復興で建てられた建物 |
現在 |
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A |
山形郷土館 文翔館 |
|||
B |
織文社 |
C |
山形地方裁判所 |
D |
山形市役所 |
|||
E |
||||
F |
||||
G |
器機ノ湯 |
H |
活版書 | 民間ビル |
||
I |
民間の建物 |
J |
山形市民会館整備事業用地(旧県民会館跡地) |
K |
山形商工会議所ビル・山形県JAビル |
L |
山形銀行本店 |
M |
山形市立病院 済生館・御殿堰中央親水広場 |
N |
山形県立山形東高等学校 |
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O |
三島神社 |
P |
宅地 |
遊学館 |
Q |
馬見ヶ崎河畔 | 教育資料館 |
R |
国分寺薬師堂 |
- 建物の場所は大凡の位置
- :現存する建物
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写真所蔵:(図)山形県立図書館(菊池新学撮影) (文)文翔館 (博)山形県立博物館
(東)山形東高 (市)山形市 (個)個人
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山形城跡(霞城公園 十日町三ノ丸土塁跡)
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旧済生館本館(山形市郷土館)
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旧山形師範学校本館(門柱及び門衛所含む 教育資料館)
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旧県庁舎・旧県会議事堂(山形県郷土館 文翔館)
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旧宝幢寺書院(清風荘)
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四山楼蔵主屋・蔵座敷
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山形聖ペテロ教会礼拝堂
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旧千歳館主屋・客室(ちとせ・つる)
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山形市立第一小学校旧校舎(門柱及び柵含む やまがたクリエイティブシティセンター Q1)
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旧市村鉄砲火薬店店舗(個人宅)
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明善寺本堂
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宝光院本堂
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旧山形師範学校講堂
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旧山形県会仮議事堂(旧宝幢寺本堂 国分寺薬師堂)
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専称寺本堂
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鳥海月山両所宮本殿・随神門
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なかたち石
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旧済生館本館(山形市郷土館)
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旧山形師範学校本館(教育資料館)
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旧県庁舎・旧県会議事堂(山形県郷土館 文翔館)
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山形市立第一小学校旧校舎(やまがたクリエイティブシティセンター Q1)
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丸十大屋
天保15年(1844)建立
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蔵ダイマス
明治 5年(1872)建立
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岩淵茶舗旧座敷蔵(水の町屋 七日町御殿堰)
明治13年(1880)建立
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亀松閣客室(あやめの間)
明治14年(1881)建立
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男山酒造
明治27年(1894)建立
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旧長谷川呉服店店蔵(山形まるごと館 紅の蔵)
明治34年(1901)建立
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蔵 オビハチ
大正初期建立
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山形六日町教会礼拝堂
大正 3年(1914)建立
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旧西村写真館
大正10年(1921)建立
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旧丁字屋洋品店店舗(山形七日町ニ郵便局)
大正14年(1925)建立
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山形カトリック教会礼拝堂
大正15年(1926)建立
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乃し梅本舗 佐藤屋本店
昭和 9年(1934)建立
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旧梅月堂(梅月館)
昭和11年(1936)建立
明治 5年(1872) | 郵便所(局)はじまる |
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明治 9年(1876) | 現在の山形県はじまる |
電信局開局する | |
明治12年(1879) | 千歳園開園(17年頃閉演/千歳公園として移設/昭和31年に薬師公園へ改称) |
明治22年(1889) | 山形市はじまる |
明治27年(1894) | 市南大火発生 |
明治29年(1896) | 旧陸軍歩兵32連隊駐屯地開設(昭和20年まで) |
明治33年(1900) | 送電はじまる |
明治34年(1991) | 山形駅開業する 奥羽本線開通(奥羽北線新庄 明治36年開通) |
奥羽六県物産共進会開催 | |
明治40年(1907) | 電話開通する |
明治34年(1901) | 第二公園開園 |
明治44年(1911) | 市北大火発生 |
都市ガス供給はじまる | |
大正 2年(1913) | 最上義光公300年市祭 |
大正 3年(1914) | 雁島公園開園(昭和58年まで) |
大正 5年(1916) | 奥羽六県連合共進会開催 ※山形県庁舎竣工記念 |
大正12年(1923) | 上水道通水はじまる |
昭和 2年(1927) | 全国産業博覧会 |
昭和 6年(1931) | 山形市と合併:東沢村小白川地区 |
昭和 8年(1933) | 日本最高気温40.8℃記録 ※平成19年まで74年間記録保持 |
昭和18年(1943) | 山形市と合併:鈴川村、千歳村 |
昭和23年(1947) | 霞城公園開園(旧陸軍歩兵32連隊駐屯地、山形城跡) |
昭和29年(1954) | 山形市と合併:飯塚村、椹沢村、東村山郡金井村、大郷村、出羽村、楯山村、高瀬村、明治村、滝山村、南沼原村、東沢村、南村山郡金井村 現在の山形市になる |
昭和31年(1956) | 大曾根村、山寺村、蔵王村、本沢村、柏倉門伝村、村木沢村合併 現在の山形市エリアとなる |