蔵王連峰を水源とする馬見ヶ崎川。その扇状地に築かれた山形城と城下町は、標高約120〜180mと60mもの高低差の等高線に合わせて築かれています。城郭は扇状地の扇端部に、城下は扇央部に配置されています。通常、城下町といえば城の下に配置しますが、山形の場合はその逆というのが全国的にも珍しい特徴です。これは、最上義光公が町人の生活を重んじたからとも、本丸の取水を目的として地下水脈に合わせたとも、扇端部にすることで湧泉帯による城西側の防御のためともいわれています。
また、城下町には馬見ヶ崎川から山形五堰(御殿堰、八ヶ郷堰、笹堰、宮町堰、双月堰の総延長115km)が網の目のように張りめぐらされ、農業用水はじめ町人の水場、三ノ丸堀水、伏流水として整備されるなど地理的条件が巧みに活かされているのです。現代の山形においても山形城はじめ、城下町、山形五堰、街路など、その面影が色濃く残されています。
義光公によって近世城下町として成立した山形城下は、特に町人の経済活動・商工業を重視して町割りがなされていたことが分かります。商人町として町立てされた市日のつく町は、羽州街道沿いに山形城を囲むように配置されています。羽州街道は南の上町から入り、五日町、八日町、十日町、横町、七日町、旅籠町、六日町、四日町を通り、北方の宮町、銅町へと通っています。南北の街路は経済上の幹線道路として町割りがなされ、市日町はその沿線上に置かれていたのです。また、職人町としては材木町、銀町、蝋燭町、塗師町、檜物町、桶町、鍛冶町、銅町などの町があり、義光公は特に職人を優遇して職人町を城下の中枢部に町立てしています。山形城下の町屋敷は、間口が約8mか9m、奥行きが約55mの地割りが多くとられていて、これを「一軒前」といい、広さはおよそ135坪から150坪の土地でした。現在でもその地割りの形態がそのまま残っているところが市内各所にあります。
これら南北の街路に対し、東西の街路は軍備、軍略上から丁字路やかぎ形路、食い違いの道路などが数多くつくられています。史料によると丁字路は郭内に60カ所、郭外に100カ所、かぎ形路が郭内に18カ所、郭外に22カ所、食い違い道路も10カ所あったといわれます。街路が見通されることを防ぎ、戦時において防御しやすいように、万全の工夫がなされているのです。
これは平城としての弱点を、巧みな街路網づくりとともに、寺社境内地の配置によって補っていたことが当時の城下絵図からも読み取ることができると、研究者はみています。即ち、主要な街道沿いや城下の重要な地点、城下の出入り口付近に、鳥海月山両所宮(宮町)、円応寺(同)、龍門寺(北山形)、柏山寺(薬師町)、専称寺(緑町)と寺内、法祥寺(七日町)、諏訪神社(諏訪町)、常念寺(三日町)、誓願寺(八日町)、浄光寺(同)、六椹八満宮(鉄砲町)、宝光院(八日町)など71の寺社を配置しています。これらは軍略上もさることながら、文化を尊び、寺社を宗教的拠点として位置づけた政策だったとみられています。
史料によれば、義光公の孫・義俊公の時代に当たる元和年間(1615〜1623)には、町立てされた町は既に31カ町あったとされ、屋舗家数は2,319戸半で人数は19,796人、うち16,055人が町人、うち3,641人が寺社方でした。街道沿いの町人町では、店、母屋、中庭と続き、その奥がお蔵や菜園といった細長い屋敷となっています。またのちに、屋敷内を横切るように用水堰があり、上流の馬見ヶ崎川から分水された水がとうとうと流れていました。これは、最上家の改易後、山形城主となった鳥居忠政公が完成させた八ヶ郷堰、御殿堰で今も続いています。
蔵王連峰を水源とする馬見ヶ崎川は、一旦大雨に見舞われると洪水・氾濫が繰り返されていたことが記録にみられますが、昭和45年(1970)治水・灌漑・水道用水などの多目的ダム「蔵王ダム」の完成でその心配は払拭されました。
馬見ヶ崎川の洪水についての記録は元和9年(1623)10月、忠政公の時代、山形城の外堀が押し切られる被害が出て、城郭の改修工事が行われたことが最初の記録として残っています。そして翌寛永元年(1624)、馬見ヶ崎川の流路を現在の形にするよう改修工事に着手します。同時に水下農民の願いにより、五堰を改めて設置したとされます。文献(嘉永7年出府の節御奉行江書上・旧今塚村丹野家所蔵)にも「元和9年に5日間降り続いた大雨で洪水が起き、翌寛永元年、当時の山形城主忠政公が馬見ヶ崎川の流路を変更する工事を行い、この工事に合わせ城濠への水の供給と生活用水、農業用水の確保のため、馬見ヶ崎川に五カ所の取水口“堰”を設けた」とあります。
城濠に流入された水は、その下流域の生活用水・農業用水としても利用されており、この水がいかに重要なものであるかが容易に想像できます。
明治・大正・昭和の初期に入ると、山形五堰は農業用水・生活用水はもちろん、水車を利用した製粉業・精米業や、養鯉・染め物・鰻問屋などさまざまな産業にも活用され、その重要性はますます高くなりました。
高度成長期に入ると、市街地における山形五堰は生活排水・工業用水の流入などによって水質悪化が進み、また、社会経済の発展による石積み水路のコンクリート化が進展しました。さらに馬見ヶ崎川合口頭首工が完成し、馬見ヶ崎川からの取水が1カ所に統合されました。このように時代ごとに利用方法や形態を変えてきましたが、近年、先人の偉業を見直す機運の高まりや、資源の利活用、歴史的遺産として、「御殿・八ヶ郷堰親水空間(小白川)」、「山大通りせせらぎ水路(笹堰)」、「六小東通りせせらぎ水路(笹堰)」、「ふれあい通り親水護岸(御殿堰)」、「八小北側親水護岸(八ヶ郷堰)」、「図書館通りせせらぎ水路(笹堰)」、「天沼(五堰で唯一残っている農業用ため池・南一番町)」、「御殿堰中央親水広場(市立病院済生館北)」などの整備が行われ、平成18年(2016)には農林水産大臣により「疎水百選」に認定されています。
平成22年(2010)、中心街に新しい五堰の景観として「七日町御殿堰」が復原され、美しい水の流れがせせらいでいます。
また、令和5年(2023)には、国際かんがい排水委員会(ICID)で「世界かんがい施設遺産」に登録されました。
最上義光公時代から続くといわれる山形初市(毎年1月10日開催)は、蕪、白ひげ、だんご木の縁起物(えんぎもの)などが持ち寄られ、多くの人々で賑わう山形を代表する冬の風物詩で、その中心となるのが「市神」です。
「市神」は安山岩(あんざんがん)の自然石で、元々は山形城内の正楽寺(しょうらくじ)(子(ね)の権現)境内に祀られていたものが、義光公の城下町造成にあたり、羽州街道(現十日町通り四辻付近)に移されたものです。
江戸時代発行の「東講(あずまこう)商人(あきんど)鑑(かがみ)」には、「この石は山形城下の町割をする時のかなめ石であったため、これを神聖視して市神と崇む」とあり、古くから山形にとって大切な石「市神様」として祀られていました。初市には多くの参詣者が賽銭を投げて、商売繁盛を願ったと伝えられています。
しかし、明治6年(1873)、山形県の布令に基づき「通行人の妨げになる」との理由から掘り起こされ、当時の県庁(二ノ丸東大手門前にあった山形城新御殿)に運ばれました。
その後、県庁の旅篭町万(まん)日(にち)河原(かわら)への新築移転に伴い、明治25年(1892)、旅篭町の人々によって、当時旅篭町雁(がん)島(じま)にあった湯殿山神社境内(現市役所西側)に祀られるようになりました。
それ以来、俗に「十日市」といわれ、十日町に立っていた初市は、横町(現本町)、七日町、湯殿山神社がある旅篭町へと広がり現在の形になりました。
なお、湯殿山神社は山形市役所の建替えに伴い、昭和58年(1983)、現在の文翔館西側に新築移転しています。
「市神」があった十日町四辻には、「市神」を信仰する町内の人々により、昭和のはじめ、街道沿いの旧家地内に新しい「市神」が置かれ、その後現在の歌懸(うたかけ)稲荷神社境内に移されました。
この物語は、「市神」が城下町に初めて姿を現した十日町に、昭和30年(1955)に建てられた、「十日市跡」と刻まれた威風漂う石碑によって、今も語り継がれています。
最上義光公時代、小姓衆の屋敷町であったといわれる小姓町。その一角に存在感漂う石碑「なかたち石」が大日堂境内にあります。
江戸後期、水野家時代に建てられたもので(現存のものかは不明)、東京の神田に見られる碑と同じで、江戸庶民文化が取り入れたものと思われます。
石碑の左側には「たづねる方」、右側には「おしえる方」と刻まれ、失くしもの、落としもの、悩みごとなどを左側に貼っておくと、右側の「おしえる方」の方に解決する人が現れたり、紙に書いたものを貼っておくという、情報交換の掲示板として利用されました。当時の庶民生活が垣間見られる石碑です。
最上氏時代から山形城を囲むように置かれた町名は、大きな変化もないまま明治維新を迎えました。
明治のはじめはおよそ30カ町とされていますが、明治7年(1874)、民間に開放された三ノ丸内が14の小字を持つ「香澄町」(霞城公園内は昭和24年に「霞城町」と名づけられた。)と新たに加えられ、長年、町を知る生き証人として見守ってきましたが、戦後、街の整備に伴い、多くの町名が惜しまれて消えていきました。
しかし、城下町時代の暮らしぶりを身近な歴史や文化を知る手掛かりの一つとして、平成元年(1989)、山形市が市制施行100周年を記念して、黒い御影石に旧町名を刻んだ標を47柱設置しました。