第2章
見えない大城郭 山形城

山形城は本丸、二ノ丸、三ノ丸を同心円状に曲輪(郭)を重ねた輪郭式城郭で、その広さは70万坪もあり、全国でも有数の広さを持つ平城で、江戸城を除くと東日本で随一の大きさといわれました。慶長5年(1600)9月の長谷堂合戦のおり、敵陣の富神山から霞がかかって城郭が見えなかったことから、別名「霞ヶ城」とも呼ばれました。

二ノ丸跡(霞城公園)

二ノ丸跡(霞城公園)

二ノ丸東大手門(復元)

二ノ丸東大手門(復元)

南北朝時代の対立を色濃く残した出羽・山形に、延文元年(1356)最上家始祖・斯波兼頼公が入部します。室町幕府の羽州管領として出羽国の統治安定を図ることが任務でした。兼頼公は入部したその翌年に城を築き、次いで民心を安定させるために延文4年に安国寺(山辺町大寺)を創建しています。応安元年(1368)には南朝方の寒河江・大江氏に、漆川(大江町)の合戦で大きな損害を与えるなど、着々と地歩を固め、一方で、近郷の山家氏や里見氏とは婚姻関係を結ぶことによって傘下へ収めていきました。

兼頼公の子直家公から最上氏を名乗り、家督を譲った兼頼公は仏門に入って城内の一隅に草庵を結び、生涯を終えました。最上氏が大名として安定するのは、兼頼公入部以後200年を経た最上義光公の時代になってからでした。

兼頼公の肖像レリーフ(霞城公園)

兼頼公の肖像レリーフ(霞城公園)

兼頼公の菩提寺 光明寺

兼頼公の菩提寺 光明寺

義光公は、天正18年(1590)に豊臣秀吉の小田原・北条氏討伐に従って以来、朝鮮出兵で名護屋城(佐賀県)に在陣し、京・大坂にも出向いて、天下人の城郭を目の当たりにしていました。記録によるとこのころから山形城の城郭の拡張事業に着手していることから、見聞した城郭が大いに役立ったと研究者はみています。義光公が築いた山形城は天守閣のない平城でした。

慶長5年(1600)の長谷堂合戦は、半月にわたって熾烈な戦いが展開されました。上杉軍は山形城を攻めるに当たって、本陣西方の富神山山頂(標高402m)から山形城を眺めたところ、10日待っても霞が晴れず全く見ることができなかったといわれ、このことから富神山を十日見山(とうかみやま)、山形城を別名霞ヶ城と呼ぶようになったとの伝承があります。長谷堂合戦における功績で一躍57万石の大大名となり、城郭と城下町の造成にも弾みがついたことでしょう。

約400年前の最上氏時代の絵図「最上家在城緒家中町割図」によると、城郭の規模は三ノ丸の周囲が6,500mで、11の出入り門があり、十一口が吉の文字になることから、「吉字の城」とも呼ばれていました。身分に応じて二ノ丸に4人の家臣、三ノ丸には511人、足軽や小姓など943人は城外に配置されています。また、商工業者は城外に置かれ、身分に応じた同心円状の構造となっています。

二ノ丸や三ノ丸の出入り口は内側にかぎ形に折れ曲がり、城内外をつなぐ道路は丁字路やかぎ形路、食い違い道路など防御のための構造がいたるところに見られます。出入り口の周辺に重臣を配置しているのも特徴の一つです。重臣たちは自身の領地を持ち、自ら城館も保有していました。このことが義光公死後の、家臣の統制の乱れによる最上氏改易へとつながる要因の一つになりました。

最上家在城諸家中町割図(山形県立図書館所蔵)

最上家在城諸家中町割図(山形県立図書館所蔵)

十日町三ノ丸土塁跡(元三ノ丸十日町口付近)

十日町三ノ丸土塁跡(元三ノ丸十日町口付近)

最上家在城諸家中町割圖により三ノ丸CG合成 イメージ山形城

最上家在城諸家中町割圖により三ノ丸CG合成 イメージ山形城

元和8年(1622)、最上氏は義光公の孫の義俊(家信)公のとき、家臣の対立が表面化し、統率がとれていないことを理由に改易されてしまいます。そのあとに鳥居忠政公が22万石で山形城主として入部します。それと同時に鳥居氏と姻戚関係にある松平重忠が上山に、戸沢政盛が新庄に、酒井忠勝が鶴岡に配置されました。つまり最上氏の遺領は鳥居氏一統の徳川譜代大名で固められたことになります。これは江戸幕府が東北の外様大名に対する抑えとして、山形を軍事的な要衝地とみていたためでしょう。

なお幕府は、義俊公に近江・三河に1万石を与え、最上家の家名存続を許しました。義俊公は近江の新領地に陣屋(大森陣屋)を構えましたが、その子義智が寛永8年(1631)に継承する際、幼少を理由に三河5千石を削られ、以後近江5千石の旗本として明治まで続きました。

鳥居氏も山形城の大規模改修を行ったと伝えられています(馬見ヶ崎川の改修も行っています)。このころに本丸や二ノ丸が拡張され、二ノ丸や三ノ丸の出入り口が厳重な内枡形に改良されました。また、石垣もこのとき以降の築造であると見られています。

鳥居氏は、忠政公の子忠恒公のときの寛永13年(1636)、後継者を定めずに死去したことで改易となります。そのあとに3代将軍徳川家光の異母弟である保科正之公が入部します。鳥居氏は改易されましたが、幕府は東北における軍事拠点としての山形の重要性から、将軍と直接血縁関係にある正之公を城主に据えたといわれています。

かつて最上氏の重臣は自ら領地を保有し、領内に城館を構えていましたが、最上家改易後、山形城以外の城は基本的に取り壊されました。「保科氏時代山形市全図」では、三ノ丸の中に家臣の屋敷が建ち並んでいます。

二ノ丸東大手門(復元)

二ノ丸東大手門(復元)

二ノ丸南大手門跡

二ノ丸南大手門跡

二ノ丸西不明門跡

二ノ丸西不明門跡

二ノ丸北不明門跡

二ノ丸北不明門跡

保科家時代山形市全図(山形県立図書館所蔵)

保科家時代山形市全図(山形県立図書館所蔵)

出羽国最上山形城絵図・正保城絵図(国立公文書館内閣文庫所蔵)

出羽国最上山形城絵図・正保城絵図(国立公文書館内閣文庫所蔵)

正保城絵図による山形城創造復元図(最上義光歴史館所蔵)

正保城絵図による山形城創造復元図(最上義光歴史館所蔵)

現在の山形城跡(霞城公園)

現在の山形城跡(霞城公園)

鳥居忠政公の墓がある 長源寺

鳥居忠政公の墓がある 長源寺

保科正之公が実母を供養した 浄光寺

保科正之公が実母を供養した 浄光寺

山形藩は次第に縮小し始めます。寛文8年(1668)、山形城主となった奥平昌能公の入部はその代表的な事例でしょう。この年、宇都宮藩時代の藩主である父忠昌が死去した際、藩主の後を追って家臣が殉死したことによる左遷でした。幕府は5年前の寛文3年(1663)に殉死を固く禁じていたのです。昌能公は領地を2万石減らされて9万石で山形に移封されました。左遷された大名が山形城主となるのは初めてであり、山形藩としての石高も初めて10万石より少なくなりました。

最上氏改易以降に入部した鳥居氏・保科氏は東北の軍事的要衝地である山形を固め、近隣の外様大名に対する監視の役割を担っていましたが、江戸幕府の支配体制が安定してきたことにより、山形の軍事的重要性は少しずつ薄れていきました。

貞享3年(1686)に城主となった松平直矩公は、以前山形城主であった松平直基公の子で、豊後(大分)日田から10万石で入部しています。この時代では三ノ丸の家臣屋敷の減少にともなって、西側は空き家が目立っています。

江戸幕府の支配体制が安定したことで山形の軍事的な役割は薄れ、奥平氏以降どちらかといえば幕府からは遠い存在の「大名赴任地」として、城主の交代が行われています。奥平氏に続いて堀田氏、松平氏なども左遷を窺わせるように石高を減らされたり、山形領と他領を分散領有するなどしたため、藩としての一円的な支配は困難だったようです。

明和元年(1764)からの3年間、山形は幕領となっています。統治に当たったのは幕府代官の前沢藤十郎で、旅籠町に陣屋を構えて城下を取り仕切っていましたが、山形城の維持が困難となったため、無人となった二ノ丸や三ノ丸の武家屋敷を取り払い、その材木や城内の樹木などを町人に払い下げ、同時に、田畑の開墾なども行われました。この影響で近在の薪屋が商売不振となり、当時「お江戸からしろうりふたつ下りてきて、町近在のきうり(木売り)迷惑」といった落首も残されています。

明和4年(1767)に秋元凉朝公が入部したときには、本丸以外は家臣の家敷がなく、7年後ようやく家臣の屋敷を整えるなどして藩主が赴任したといわれます。秋元氏の石高は6万石で、山形領3,500石、武蔵国(埼玉・東京)に5千石、河内国(大坂)に2万石と分散しています。

山形城最後の城主である水野氏は、弘化2年(1845)に入部しました。石高は5万石。この時代の「水野氏時代山形市全図」では三ノ丸の大半が水田や畑になっています。これは、幕領の時代に武家屋敷を取り払ったあと、その土地を農地用開発地として町人に入札させているためで、武家屋敷は三ノ丸の東側半分の道路沿いに僅かに集中し、その他の地域は田畑と化し、やがて明治維新を迎えます。

水野氏時代山形市全図(山形県立図書館所蔵)

水野氏時代山形市全図(山形県立図書館所蔵)

松平忠弘公によって作庭された もみじ公園(旧宝幢寺庭園)

松平忠弘公によって作庭された もみじ公園(旧宝幢寺庭園)

本丸の書院を移築したといわれる 宝光院

本丸の書院を移築したといわれる 宝光院

昭和61年(1986)、二ノ丸全体が国の史跡に指定され(翌昭和62年には十日町三ノ丸土塁跡が追加指定)、現在は都市公園「霞城公園」として桜と観光の名所となっています。公園内は、平成3年(1991)に二ノ丸東大手門が伝統的な城郭建築様式にのっとり、木造建築で復原されました。本丸の堀は明治時代に陸軍歩兵第32連隊(霞城連隊)の兵舎を造る際に、土塁や石垣を崩し埋められていましたが、平成8年(1996)から本丸の発掘調査が進められ、本丸一文字門一帯の堀と石垣、大手橋が復原されており、新たに蘇ろうとしています。

なお、霞城公園は平成元年(1989)「日本の都市公園100選」に、山形城は平成18年(2006)「日本100名城」に指定されています。

霞城公園整備計画全体鳥瞰図

霞城公園整備計画全体鳥瞰図

本丸一文字門(霞城公園)

本丸一文字門(復元)

明治初期(解体前の二ノ丸東大手門)

明治初期(解体前の二ノ丸東大手門)

昭和初期(陸軍歩兵32連隊駐屯地正門)

昭和初期(陸軍歩兵32連隊駐屯地正門)

昭和60年頃(霞城公園東口)

昭和60年頃(霞城公園東口)

平成3年(復原された二ノ丸東大手門)

平成3年(復原された二ノ丸東大手門)