第4章
商人町山形、地方都市に息づく
交易がもたらした京、江戸文化

最上義光公は、羽州街道沿いに市日町、職人町などをつくり、近江商人をはじめ外来商人の自由貿易を積極的に進め、その繁栄ぶりは東北最大ともいわれていました。義光公の没後、後継者に絡む内紛のため改易され、山形藩は次第に衰微し明治維新まで小藩政治に終始、最後の藩主水野忠弘公の時代には僅か5万石の小藩となりました。しかし、商業は大いに発展して江戸時代の山形の繁栄を支え、城下町としてよりも商業都市として発展・繁栄しました。

中でも最上川舟運の整備による紅花交易の発展、蔵王や出羽三山信仰の隆盛に伴う参拝者の拠点として賑わい、交流によってもたらされた遺産が各地にみられます。その一つがいまも現存する「蔵文化」です。蔵座敷、仏蔵、店蔵、荷蔵などのうち、蔵座敷、仏蔵は京都に多くみられ、最上川舟運によって伝わった京文化が根付いたとみられています。一方、京都・大阪にあまり見ることがない店蔵は奥州・羽州街道の発達から江戸文化が流入したとみられます。

このように、蔵をはじめ多くの文化が交易によって入り込み、山形は独自の文化を育んできました。

三日町角周辺の様子 安藤広重筆 霞峰下絵「湯殿山神社道中略圖」(山形大学付属博物館所蔵)

三日町角周辺の様子 安藤広重筆 霞峰下絵「湯殿山神社道中略圖」(山形大学付属博物館所蔵)

七日町角周辺の様子 安藤広重筆 霞峰下絵「湯殿山神社道中略圖」(山形美術館所蔵)

七日町角周辺の様子 安藤広重筆 霞峰下絵「湯殿山神社道中略圖」(山形美術館所蔵)

江戸初頭、義光公が領国統治のために進めた主要政策の一つが最上川舟運の開発でした。内陸と庄内の統一とともに、日本海を通じて領内の経済と文化を全国に結びつけて発展を図ろうとしたのです。まず手を着けたのが慶長6年(1601)、57万石の大大名になると間もなく、村山地域の最上川の三難所である碁点、三ヶ瀬、隼の開削事業を行い、中継ぎ河岸として重要な大石田河岸や、山形に近い須川に船町河岸を設けました。河口の酒田港はそれ以前から発展していましたが、慶長年間の最上氏時代に本格的な整備が図られています。これによって最上川舟運は交易の大動脈になっていきました。

山形まるごと館 紅の蔵

山形まるごと館 紅の蔵

丸十大屋

丸十大屋

蔵 オビハチ

蔵 オビハチ

近江出身で山形に定着した商人が江戸前期に数多く活躍しました。例えば十日町の西谷家・中村家・長谷川家・村居家などがあり、現在も近江屋の屋号を残しているところもあります。彼らは蚊帳や麻布、木綿、古着、繰綿、砂糖などを近江から山形に運んで商い、山形から紅花や青芋を京都・奈良に移出して、商人としての力と財を蓄えていきました。

山形城下の特徴は、仙台や米沢と異なり最上家改易後、版籍奉還の明治までの240年余りの間に12代も大名が交代したことです。それにともない石高が減り、武士人口も減少したことで商人の活動が次第に活発化していきました。江戸中期以降は、山形商人の商売の対象は武士だけでなく、城下町の町民や周辺農民にまで広がっていきます。江戸後期になると、山形の商業は村山地方全体に問屋・仲買関係が形成され、流通・金融面で山形商人が中心的存在となって活躍しました。このことから山形は商人優位の町といわれました。

最上川舟運の開発で、上方との物資の交流は飛躍的な隆盛をみせました。山形の移出入は「酒田一方口」ともいわれ、当時非常に高価で、全国にも知られる良質の染料として珍重された最上紅花をはじめ、山形地方の特産である青芋、米、大小豆などは大石田河岸まで陸送され、そこから最上川を下らせ、上方物資の木綿・古手・塩・砂糖・お茶・小間物などは、酒田から天童・寺津まで最上川を上り、寺津から船町までは須川を小船で運ぶという形をとっていました。船町河岸は明治20年代まで続きました。幕末の山形の商店には呉服太物店、小間物卸店、万太物類、薬種砂糖所、繰綿太物卸店などが特に多く存在しました。

これらの生活用品とともに、いろいろな文化や技術も入ってきました。仏教文化では京都・大阪で製造した梵鐘や仏像が運ばれており、享保年間(1716〜1735)以降は山形銅町でつくられた梵鐘も普及し、確実に文化は受け継がれていきました。宮町の鳥海月山両所宮や鉄砲町の六椹八満宮に奉納された石灯籠には、山形商人のほか京都・大阪・姫路などの問屋商人の名も刻まれており、いかに上方商人が山形に深く関わっていたかが窺えます。

現在、県内各地の休暇に残されている雛人形もその一つで、享保雛や古今雛などの時代雛は今でもその美しさを誇っています。

江戸末期につくられた蔵座敷として現存するものは、十日町の佐藤利右衛門家の蔵座敷と店蔵がありますが、そのほかの多くは江戸の伝統を引く様式で明治以降に建てられました。徐々に技術の昇華発展もみられ、屋根の構造などは山形独自のものとして注目されています。

山形鋳物の千年和鐘(山形市役所構内)

山形鋳物の千年和鐘(山形市役所構内)

時代雛

時代雛

奥州街道の脇街道で、桑折から福島・山形・秋田・青森を結ぶ羽州街道は、参勤交代が始まった江戸初期頃から整備され、多いところは奥羽の大名13家が通りました。

江戸中期頃になると、出羽三山参詣が盛んになり、東北各地をはじめ北陸・中部・関東方面からの往来に、また最上紅花を北前船で京都に届けるため、最上川川港である大石田までの陸路としても利用されました。

羽州街道には、庄内に通じ、出羽三山参詣道でもあった六十里越街道、仙台へと通じる笹谷街道と二口街道、置賜へと通じる小滝街道と狐越街道など東西の分岐の役割もあり、地域の生活道であるとともに、交易路としても発展しました。

紅花文化を伝える青山永耕筆「紅花屏風」(県有形文化財 山寺芭蕉記念館)

紅花文化を伝える青山永耕筆「紅花屏風」(県有形文化財 山寺芭蕉記念館)

高瀬紅花畑

高瀬紅花畑

山形の花柳界は、明治維新後、定住した水野家藩士の料亭創業に始まり、全国の文人墨客や政財界の要人からも高い評価を受けながら、街の近代化とともに繁栄しました。

料亭文化とともに歩んできた山形の芸妓文化は、市北大火復興を記念して開催された「奥羽六県連合共進会(大正5年)」で一躍注目を浴び、大正12年(1923)に起こった関東大震災の被災者で、東京から山形へ来た歌舞伎役者などによる芸妓置屋の開業を経て、「全国産業博覧会(昭和2年)」を機に一段と賑わいを極めました。

最盛期の大正・昭和初期には、大小合わせ30軒を超える料亭とおよそ150名の芸妓が街を賑わせました。

しかし、時代の変遷とともに料亭と芸妓の数は徐々に減少しましたが、現在も地方都市としては珍しく3軒の料亭と、全国から評価された優れた伝統芸能を継承する「やまがた舞子」が芸妓とともに山形の芸妓文化と観光振興に活躍しています。

やまがた舞子

やまがた舞子