山形城主11代城主最上義光公(1546~1614)は、山形城の大改修をはじめ、城下町の整備や商工業・交易の振興、文化の発展に尽くし、さらに最上川交通網の整備、庄内平野の開発にも努めるなど、現在の山形の礎を築いた、戦国時代の武将です。
慶長5年(1600)、出羽の関ヶ原といわれる「長谷堂合戦」で、徳川方として豊臣方・上杉景勝の重臣直江兼続軍と戦い、功績により57万石(実高は最上100万石とも呼ばれています)の全国第5位の大大名となりました。
また、文人としての才も備え、連歌では戦国大名中随一といわれています。
義光公は最上家始祖・斯波兼頼公の延文元年(1356)山形入部から190年後の天文15年(1546)、父義守公の長男として山形城に生まれました。妻は大崎家の息女とされ大崎夫人しいいます。義光公は幼名を「白寿」あるいは「源五郎」といい15歳で元服し、将軍足利義輝より「義」の字を賜り「義光」と名乗り、若いときから武略に優れていたと史料は伝えています。
義光公が家督を継いだのは元亀元年(1570)25歳のときでした。当時の最上宗家を囲む環境は、米沢の強豪伊達氏が山形城近くの谷地城・白鳥氏や、寒河江の大江氏らと謀って、常に最上氏を脅かしていました。また北方には鎌倉時代からの勢力を誇る小野寺氏が仙北にあって、最上地方に進出の気配を見せており、さらに西方の庄内には武藤氏が尾浦城に居り、越後の強豪上杉家の後押しを得て最上地方と村山地方を脅かしていました。当時の最上氏の勢力はせいぜい14、5万石程度といわれ、戦国乱世のこの時代を生き残っていくためには最上一族の強固なつながり、即ち大名権力の拡大を断行することが必要でした。
天正9年(1581)鮭延城・庭月城を攻略したのに続いて同12年(1581)谷地城主白鳥十郎長久を滅ぼし、寒河江氏、天童氏等を討ち、同15年(1887)には庄内に出陣して武藤氏を討つなど、矢継ぎ早に攻略していきました。この間、山寺立石寺に土地を寄進するなどの信仰心の篤さも見せています。
義光公は自分に反抗するものに対して容赦しなかった一方で、天童氏を滅ぼす際に大きな功績のあった天童氏の重臣・延沢光延にそのまま延沢城主の地位を与えて2万石を給し、その子又五郎には自分の娘松尾姫をめとらせて、長く最上家の重臣としてとり立てています。ほかにも後で上山城主となった里見越後守や尾浦城主となった下治右衛門吉忠など最上氏の重臣ではなく上杉氏としてとり立てています。このように忠節を誓い協力する者には最大限の酬いを与えており、義に篤い義光公の人物像が窺えます。
天正18年(1590)ごろになって一族の平定も終えたころ、豊臣秀吉の天下は動かぬものとなりました。このころから義光公は中央における権力を意識し始め、徳川家康と秀吉に接近を図ります。多くは家康を通じて秀吉に接近していました。同年、秀吉の小田原攻めに参陣を呼びかけられたとき、義光公は平定の後始末などで参陣が遅れ、秀吉に咎められて身も危うかったところ、家康の取りなしで事なきを得、家康へ一層傾いていったと、研究者は指摘しています。
なお、秀吉の朝鮮出兵の命に従って、文禄元年(1592)義光公は手勢500を率いて肥前国(佐賀県)名護屋に参陣し、物資・主に食糧をの調達と輸送に当たっています。陣中から家臣に宛てた文書などからみて、このころから山形城の大規模な修造が始まったと思われています。
時代は下って文禄4年(1595)には、深い悲しみを迎えます。愛娘「駒姫」の悲劇です。
駒姫(お伊満)は史料によると「東国一の美女」とまで讃えられた女性でした。関白豊臣秀次は執拗に駒姫を所望し、側室としました。ところが駒姫が上洛した文禄4年7月、当の秀次は秀吉の怒りを買い、高野山で切腹させられてしまいます。そればかりか秀次の妻子、側室たち30余名が京中を引き回され、三条河原で処刑されるという惨い事件に発展し、駒姫もまたその犠牲者となったのです。ときに年齢僅かに15歳と伝えられています。
義光公は娘を側室として差し出したことや秀次謀叛の企てに加わったという嫌疑により、聚楽第に呼び出しを受け、監禁の上厳重な取り調べを受けたとされます。このときも陰で家康のとりなしがあり、咎めが重大に至らなかったと伝えられています。
慶長元年(1596)、義光公は専称寺の乗慶に命じて寺基を高擶村(現天童市)から山形城下へ移し、亡き駒姫の菩提寺としました。専称寺は浄土真宗の寺院で、義光公の庇護のもとに山形城下八町四方の広大な敷地を与えられ、敷地内にはその後13カ寺塔頭が建てられ、壮麗な寺内町が形成されます。これも最上家安泰のために若くして犠牲になった駒姫の霊を手厚く供養するという義光公の熱意の表れと言われます。
慶長5年(1600)、天下分け目の戦い関ヶ原の合戦とときを同じくして、慶長出羽合戦「長谷堂合戦」が起こりました。同年9月、豊臣方・上杉景勝の重臣直江兼続は2万余の大軍を率いて最上領に攻め入り、同13日に畑谷城を攻め落とし、続いて長谷堂城を取り囲みました。
長谷堂城の城主は最上の智将志村伊豆守光安、副将は豪勇鮭延越前守秀綱。手勢は700人程度といわれます。義光公はこれに旗本100人と鉄砲足軽隊200人を援軍として派遣しました。
緒戦は9月15日、この戦いで最上勢は200〜300人の兵を失いましたが、16日の夜は直江陣に奇襲攻撃をかけ150人を討ち取りました。22日、伊達の援軍が到着して最上勢は大いに士気が揚がります。24日、城攻めに出た直江軍は何の成果もなく退却。29日は激戦となり、地理に明るい地元兵は進むも退くも自由自在に活躍し、直江軍の剣豪武将上泉主水泰綱を討ち取るという大戦果を挙げました。
その日、関ヶ原では9月15日に景勝が味方した西軍(豊臣方)敗北の知らせが届きます。「こうなっては退却あるのみ」─兼続は10月1日、全軍退却を命じます。立ち込めた朝霧の中、退く直江勢、追撃する最上勢。長谷堂から富神山周辺一帯は修羅の巷と化しました。現存する義光公の兜に残る弾痕は戦いのすさまじさを物語っています。
この戦いで、直江勢1,580人、最上勢623人、伊達勢30余人、計2,200人を超える男たちが命を落としたとされています。この戦いのあと、村人は敵味方の区別なく戦死者を丁寧に葬ったとされ、村人の温かい心情を読み取ることができます。山形西部の古戦場には「主水塚」「掃部の碑」「湯目の碑」などの供養碑が残されています。
その後、庄内全域を平定した義光公は、慶長6年(1601)8月、天下を統一した徳川家康によって村山・最上郡に加え田川・櫛引・飽海・由利(秋田)の4郡を加増され、57万石の大大名となりました(実高ははるかに大きく最上100万石と称されていました)。上杉景勝は会津120万石を没収され、新たに米沢に移されて、置賜・伊達・信夫の3郡で計30万石に減封され、一方、伊達政宗(実母は義光公の実妹義姫)は僅か2万石の加増で62万石にとどまっています。義光公は伊達家と並ぶほどの躍進ぶりでした。
長年にわたる戦乱の時代も去り、平和な時代になっても義光公はじっとしてはいませんでした。戦乱によって失い、あるいは被害を受けた寺社の再建には陣頭に立って指揮し、手がけた寺社は実に186カ所に及んでいます。また、治水・灌漑の巨大事業は、庄内平野の例を見てもこの地方を一大穀倉地帯に変えたばかりでなく、現代にいたってもなおその恩恵を多くの人に与えています。
一方、義光公は古典に精通し文学的にも優れていたといわれます。上方との交流、中でも京都の貴族や文化人との華やかな交流があったことが、近年の研究によって次第に分かってきました。義光公が関係した連歌は33巻にも上ることが知られています。また、連歌の仲間には小西行長、黒田孝高等の武人はじめ公家、僧侶、豪商などとの交流があり多彩です。
政治・経済・文化・宗教の各面でこれだけ幅広く領民に尽くした大名の例はあまりなく、戦国における傑出した“英雄”といえるでしょう。
慶長19年(1614)1月19日、波乱にとんだ生涯を閉じ、菩提寺の光禅寺にて永遠の眠りにつきました。享年69歳でした。光禅寺は義光公創建の曹洞宗寺院で、義光公・家親公・義俊公の三代の墓があります。