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豊烈神社例大祭 山形豊烈打毬(古式打毬)・御神輿渡御

 山形城最後の城主水野家は、その遠祖を源氏の流れをくみ、尾張国春日井群山田庄水野郷に住み、「水野」を氏とする。のちの戦国時代に水野忠政の娘が三河の徳川忠広に嫁し、家康を生んでいる。
 忠政の子忠守は家康に従い、その子堅物忠元が大阪の陣の攻により、下総山川三万石の大名になった。
 水野家は、この忠元を似て中興の祖として豊烈霊神の名をとり祀ったのが桜町の豊烈神社である。水野家は、徳川家康の生母お大の方の生家として、幕府の譜代大名であった。忠元から十代を経て、越前守忠邦が遠州松浜城主六万石のとき老中首座をつとめ、「天保の改革」を強行が失敗して失脚、弘化2年(1845)11月、その子忠精が13才にして、山形五万石に移封された。
 豊烈神社の祭神は、この忠元(豊烈霊神)、忠邦(英烈霊神)であるが、後、戊辰戦争犠牲者して、山形を兵火の惨害から救った水野三郎右ェ門をはじめ二十四柱の霊を、旧藩士族で結成していた「香澄倶楽部」が主唱して豊烈神社祭神に加えることを神社庁に申請し、許可を得て、昭和30年10月5日に合祀された。この神社の祭礼は、旧山形市では最後に行われる祭りでもある。また、この日は神社に伝わる古式打毬(山形豊烈打毬)が奉納されるのでも有名である。
 豊烈神社に伝わる古式打毬(山形豊烈打毬)は、宮内庁、八戸の打毬とともに、日本に残る三つの打毬の一つである。
 起こりは、旧山形藩水野家において、藩祖の霊を慰める為、文政4年(1821)10月6日の祭典に神事として奉納されたのが始まりで、その形式方法は現在宮内庁に伝わるものと同一である。
 幅8間、長さ45間の馬場において(現在は5間×30間)、紅白4騎宛で、水にオモダカの紋服に陣笠、袴、籠手を付けた騎士によって争われた。打毬は、騎馬戦の修練を目的としたものと考えられ、すべて武士の作法と精神を重んじたものである。
 現在、豊烈打毬会員は、約20名で乗馬クラブなどで訓練された人が跡継者として入会し、伝統文化を継承している。

場所山形市桜町7-47
電話023-642-7108
交通山形駅から徒歩約10分
その他例年10月6日 神輿渡御、山形豊烈打毬、徒打毬、奉納剣道大会
駐車場の有無なし