山形北部の町々
≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫
県立中央病院、総合スポーツセンター
静かな農村地帯から一変して
●馬見ヶ崎川の流水路工事で度重なる洪水に見舞われた事も
山形駅、香澄町通りも整備されて車のラッシュが続くが、北に向かう車は、北山形を過ぎると、かつては山形の郊外であった美しい千歳橋を渡る。20世紀末から21世紀にかけて発展する路線といえる町並みに変化している。
千歳地区の自然や歴史を辿ると、野呂川による氾濫によって地味が肥沃となり、古代には勾玉の出土遺跡まで見られる地域で、義光公時代は、長岡但馬守(義光公没後殉死した重臣)の舘、落合伯耄守の舘などが山形城の北部を守る役割を持っていた所であった。野呂川が運んでくれた豊かな肥沃土に恵まれ、農民の生活も安泰な地域であった。しかし、最上公が改易されると、鳥居忠政公が入部して城下町を脅かす馬見ヶ崎川の流れを改修し、二口や長町方面に流水路を変えてしまった。それから約300年間、大正10年ころまで千歳地区は洪水に悩まされて来た。山形城下も、 現在の緑町の消防署附近より堤防が破れ、明治22、23、27年に大洪水となった記録が見られ、美しい馬見ヶ崎川から想像もできない歴史の跡が見られた。明治22年、県の市町村合併に伴って、落合地区と長町・沖ノ原などが合併し「千歳村」となり、昭和17年に鈴川村と一緒に山形市に合併したが、二つの地域は馬見ヶ崎川洪水によって明治22年から約40年の間に15回も悩まされて来た。落合という地名は、野呂川と馬見ヶ崎川が洪水のたびに合流し合った地域で、落合村だけが微高地となって救われたといわれている。やや高い堆積地であったので古い八幡神社をまつり、北辺の防衛地になったようである。
今から400年前の義光公の時代に城下町が整備されたが、山形城下の北辺については街道も絵図に描かれていない。出羽国絵図などを参考に見ても、羽州街道という道が不明である。バイパス以前の国道13号、山形―漆山―天童―六田(東根)―楯岡という街道を羽州街道と呼んでいた。義光公が山形城下を築く以前は幕府所在地と結ばれる主街道がなかったとも考えられる。千歳地区に長岡但馬守の舘(屋敷)をつくり、落合地区に落合伯耆守の舘をつくったことは、高擶と長町―風間―落合を結ぶ道が古い街道で、天童城や山寺などと往来していたとも考えられる。
江戸時代になると、江戸を中心とした五街道が生れた。東北地方に奥州街道が制定されたのは、徳川家光のころで、福島市の東北にある桑折から「羽州街道」と呼ばれる道が生れた。山形城下は発展しても、周辺部の道は小径で現在のような道の形が出来上がったのは、元禄4年ごろであり、芭蕉も参詣路を通って山寺に入山したが、山形城下には足跡がない。つまり当時の街道は経済的評価がなかったのであろう。特に、千歳地区の場合は、長町の熊野神社あたりから、千歳駅前の道を横断して、沖ノ原の会田賢三郎氏宅の前を通り、馬見ヶ崎のだんご茶屋に出て来る道が、古い羽州街道であったと考えられる。
●千歳橋の欄干には最上家の紋章が。いまも重要なルート
明治9年に山形県が統一され、8月に土木工事の県令三島通庸が赴任して来た。山に囲まれた村山地方の山形に県庁をつくり、山形銀行本店の四辻に「山形県道標」を立てた(県立博物館所蔵)。県内各市町村までの里程元標であり、現在でも記念石が存在する。千歳地区の近代化は長町三丁目と七浦地区を結ぶ「緑橋」ができた明治12年から始まり、千歳二丁目の馬見ヶ崎川北部に向って直線道路ができ上がった。明治14年(1881)9月には、明治天皇がこの道(旧国道13号)を巡幸し、山形市に泊った。
馬見ヶ崎川に架けられた橋は木造で、昭和になってコンクリート橋、現在は最上家の紋章が刻まれた二車線の道路となった。
千歳地区には、千歳橋、万歳橋、馬見ヶ崎橋など多くの橋が馬見ヶ崎川に架けられているが、川をはさんで東西に新興住宅街の発展が見られ、公共施設の大きい建物が存在する地域で、この地域の発展を促すと考えられる。昭和12年、奥羽本線と仙山線が千歳駅で結ばれた。
山形北部地域は明治11年(1878)の郡区町村制に基づいて東村山郡役所のもとで行政が行われた。明治34年5〜8月にかけて楯岡町(現在村山市)まで奥羽本線が延長した。しかし、千歳駅がなく、鉄道工事の時に長町東浦(湿地帯)で多くの死亡事故があったという。昭和12年10月に仙山線開通、これより四年前の10月17日に山寺まで開通した時に駅が誕生した。
●国際交流プラザ、体育センター、若者が集い、声がはずむ
長町と七浦、青柳の間に駅(現在の南出羽駅)が作られたのは昭和40年ごろであるが乗降者が少ない駅であった。平成に入ってから、七浦・青柳地区は超スピードで変っている。長町側には国道112号、七浦・青柳間には県立中央病院とシャレた洋風の県立保健医療大学が生れた。然も県立中央病院の診療を受ける山形市民のために、山形南部の休暇センターと病院を結ぶ定期バスやシャトルバスが利用されるようになる。市内中央をバスが通過するようになると街の活性化に影響すると思われる。市内の中央部から、人びとの集まる諸施設が移動すれば、新しい建物・施設の具体的なプランの早期実現を考えなければならない。
落合には近世初期に義光公が天童城を攻める時に通った古い道があった。また、康平5年に建立されたと伝えられる八幡神社があり、源義家が戦勝祈願の神をまつったと伝えられる。その東側には現代の会社にふさわしいビッグウィング・山形国際交流プラザなどの大会場、南には総合スポーツセンターがあり、21世紀の若者の集いが賑やかに展開される。仙台市の宮城野区に共通する性格がある街である。東側には国道一13号、流通センター等が市内商店街の心臓部として発展している。新旧の街があるためか、落合地区の曹洞宗泉福寺(1639年建立)では、現代に生きる人達の集いの場として、ギターを弾き、ミュージックライブを行っている。仏事には、葬式だけでなく、法を楽しみ歌楽を通して仏法を広める役割が町の変革になっている。
≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫