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漆山出羽地区

≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫

バイパス沿いに広がる大工業地帯
紅花栽培、七浦絞などの歴史も

●きくばあちゃんがたくわえた紅花の種、県の花を守りぬく

 羽州街道を山形城下より北に向うと漆山がある。明治22年(1889)の町村合併の時、七浦、千手堂、漆山の三カ村が合併して「出羽村」となった。明治35年に奥羽本線の漆山駅が誕生した頃は、羽州街道から東方に約1,800bの所にあり、現在でも漆山駅の建物は殆ど変らず、明治の面影を偲ぶ事ができる。山形市の北はずれの駅で、駅東には石油タンク、セメント工場があるだけで、稲の香りのただよう駅である。昭和27年に、漆山駅と出前千歳駅の間に生れた「南出羽駅」は当時から無人駅だが、新しくできた県立中央病院に最も近い駅となって乗降客も今年から多くなった。周辺部は田園風景、蔵王山系、朝日連峯、月山の四季の変化する遠景など、村山盆地の最高の自然景観といえるかも知れない。
 漆山駅より線路に沿って南に行くと「志村」という所に到着するが、新興住宅街になっている。この地域は志村伊豆守の土地であったらしく、志村という地名が残されている。昭和30年頃の山形では、「紅花の里」を探すのが大変であった。しかし、志村には桜井きくバアチャンがいて、戦争中の食糧増産の時も「紅花」の種を播いて育て続け、山形の花を守りぬいた。紅花は昭和29年に県花として認められたが、桜井きくバアチャンが貯えた5.2gの種が畑に芽を出し新しき紅花の花が現在の紅花畑をつくったといっても過言でない。朝早く起きて紅花を摘み、桶で洗い、紅花餅を花ムシロに並べて発酵させ、足で踏み固めてセンベイ型の花モチを作り、乾燥させる仕事は夕方までかかる。きくバアチャンの楽しみは亡き夫に贈る歌を詠むことで〜紅の花 この世に咲かせて 伝え行く 浄土に行けば 旦那まつ〜という歌を歌ってくれる人だった。山形の特産紅花は草木染、食品、医薬にも使用され、一寒村から新しい産業の発展を目指すことも忘れられている現代で見直していきたいものである。
 明治14年9月29日楯岡を出発した明治天皇は、三島県令の準備した羽州街道の直線道路を天童の東村山郡役所で小休止した。県都山形に入る前に小休止した所は漆山の大地主半沢久次郎家である。半沢家は村山地方でトップクラスの大地主で、明治以前は俳諧師半沢二丘という文化人で、山寺の「せみ塚」を建立した一人である。明治帝を迎えるために玉座をつくり、20世紀末まで文化遺産として保存されていたが、現在は蔵王温泉行のバスルート「里のわらべ館」に展示されている。
 半沢家では、近くの漆山代官所(旧秋元藩陣屋)を利用して「郡立染織学校」の設立(明治35年)に努力している。この地域は立谷川扇状地の半端にあたり、地下水に恵まれ、江戸時代から発達した養蚕業を背景として織物工場も多く見られた。織物工業の始まりが、漆山〜七浦まで広がり、昭和30年ごろまで見ることができた。その後は、社会生活が一変して、山形市合併後の出羽街道の出羽村は東方のバイパスに発展した。


●古戦場だったと伝えられる立谷川、今は工場が建ち並ぶ

 伊達城、立谷川地区には立谷川扇状地を東西に結ぶ古い道があり、石碑や石塔などと出合うことがある。立谷川の両岸は天童と山形の義光公が合戦した古戦場とも伝えられる。昭和20年頃には、神町飛行場と日本飛行場が漆山東部につくられ、中学生や山形高等学校の学生たちの勤労奉仕によって出来た所で、終戦当時は荒野に変った。しかし、昭和30年代になると、家電メーカーなどの工場進出が行われ、旧国道の自動車交通の渋滞などで東部にバイパスが完成した。漆山地区で大きく変化したことは、旧国道13号は「主要地方道山形・天童線」となって、近世の街道を偲ぶように変ったことであろう。バイパス沿いに企業の事業所が建ち並び、魚市場、自動車販売会社の他、漆山と山寺を結ぶ立谷川工業団地の発達と様相の変化が著しい。山形市中央卸売市場もバイパス沿いに見られる。


●義光公寄進の延命石橋など多くの石碑、石塔が建つ千手堂

 千手堂は七浦と漆山の間にある集落で、出羽街道から西に発展したと考えられる。羽州街道と中野道の十字路より西に向って曲ると出羽公民館を過ぎて、西南に寺を囲む森が見える所に千手堂観音がある。伝承によれば、奈良時代の役の行者が開いた寺といわれている。この地区で発掘された古棺も境内に保存されているので古刹寺であることに間違いがない。最上義光公は、千手堂を第一番にしている。それは、三十三観音の番札に第一番と書いた義光公の歌扁額が懸けられているからである。
  花を見ていまやたおらむ千手堂
     にわの千草も盛りなるらむ
 慶長8年癸卯3月17日(1603)源 義光朝臣 敬白
 千手堂の境内には老杉の親子延命杉、慶長年号の延命石橋(義光公寄進)などの他数多くの石碑、石塔を見ることができる。正面の観音堂は兼頼公が再建し、現在に至るまで3〜4回修復されているが、昭和49年に解体修理されたのが宝形造り銅板葺きの文化財となっている。本堂には弥陀、薬師の他千手千眼観自在菩薩像の三尊があり、あまねく一切衆生を救う観音像が深く信仰されている。堂内には慶長16年(1611)の漆金泥の絵馬をはじめ信仰絵馬が数多い。また算額、俳額なども奉納され信仰の厚さと歴史の深さを暗示してくれる寺が、町の中心になっている。
 元出羽村の南端七浦集落は南出羽駅の西で、東側の青柳方面は県立中央病院があり発展が著しい。ここは、馬見ヶ崎川と高瀬川の合流点で、やや低い段丘型の平地で、洪水で悩まされる地域であるが、弥生遺跡など数多く出土し、古い歴史を持っている。江戸末は秋元領となり、殖産振興として、豊富な地下水を利用して染織業が発達し、販売は市内及び最北地区まで拡大されていた。青山、細谷、丸子家などが代表的な染屋で、明治30年頃までは、地元の藍、くるみ、紅などを原料として、「七浦絞」を染めていた。付近の農家で織った麻布、木綿、絹地などの美しい絞り染めを作っていたが、現在は山形市郊外住宅地となり静かな佇まいになっている。

≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫