山形観光情報専門サイト WEB山形十二花月


江俣・江南

≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫

往古のにぎわいを物語る江俣街道
今は商業地、住宅地として発展

●文豪志賀直哉が通った道、あこや姫にまつわる梅の大木

 山形市の南に住んでいると、山形北西の下条・肴町・江俣などは8`と遠くにある町である。先日、東部公民館主催で行われる市内名所旧跡めぐりの案内役を務めることになり、江俣地区を久し振りに歩いて見た。下条の四叉路より、東西北の道に沿って民家が見られるのは江俣だけであったのが、最近ではこの地区が古い街並になっていた。江俣と左沢線の間の田畑は「江南」となり、昭和40年代から近代的な住宅地となって、市内一の広い駐車場のある江俣公民館も存在する住宅街に変っている。百聞一見に値する新旧の街並に感銘した次第である。
 山形北部の近郊住宅街の拡張・区画された道路の発展に眼を見張るものがある。それに反して、山形南部の元木・青田地区の迷路のような路、区画などは改善することも考えなければならない。
 さて、国道112号の江俣一丁目であるが、伊達藩の庶民たちが二口峠、笹谷越えして山形に泊り、出羽三山詣りを行った所であり、明治の文豪志賀直哉なども通った道である。下条四叉路の角にある真言宗延命寺には、阿古耶姫が通行した時に、梅の種を捨てたので芽がでて梅の大木となり、「阿古耶の梅」と伝えられている。建立者不明の芭蕉の句碑「物言えば唇寒し秋の風」なども見ることができる。
 江俣街道(国道112号の仮称)の歴史は古く、馬見ヶ崎川の下流にあたり、河跡湖として江俣沼があった所である。地名の由来は、馬見ヶ崎川の流れが洪水のたびに変り、大きな川がいくつも分れていた。現在の江俣街道は川の流れで堆積して生れた自然堤防の上にできた。江俣街道の北側も少し高かったので古代の嶋村が発生し、嶋千軒といわれている大きな集落があったという。その後いくたびかの洪水があって現在地に定住するようになった。
 最上義光公が山形城を受け継ぐ時に、親子の間で対立があった。 天正2年(1572)、この頃は戦国時代で、伊達藩でも親子兄弟の勢力争いの戦いが行われた。親類同士の最上家でも父義守公が気性の強い義光公を好まず、弟の義時公を可愛がった。当時、伊達輝宗公(政宗公の父)が義守公から協力を求められて上山まで兵を進めた。その戦いは、船町から江俣の所で争われたという。江俣周辺には陣場・馬上台などの古い地名が残ったのも、山形の町が生れる古跡名といえる。(やまがたの歴史―中世山形・戦国争乱参照―)
 元和8年(1622)最上家から鳥居忠政公に変ってから、検地が行われ、江俣には90戸の家があったと記録されている。徳川家光の時代あたりから、山形城主の交替が激しく、山形城下は政治的な活動より商業活動が発展した。江俣地区は最上川舟運の船町(大郷地区)と城下を結ぶ交通の要所となり、伝馬集落の性格を持ち、牛馬車の動きも活発であった。江俣にもそれなりの地主もおり、羽角家などは江戸初期から大庄屋を務め、幕末には和算塾の師匠であった。


●山形うるおい百景の一つ、高松寺の庭園。山門には仏足跡

 江俣地区は馬見ヶ崎川扇状地の低湿地にあたり、鳥居公が河川の流れを変えてから「八ヵ郷堰」を利用して米を作っていた。地下水がでるので飲水に不足しなかったようである。この地区には二つの寺があり、東に延命寺、中央には曹洞宗の高松寺がある。二つとも森の中に建つ寺で水害の心配が少なかった。江俣には義光公と義時公が戦い、多くの戦死者を出して埋めた所を首塚と呼び、元屋敷跡にあったと伝えられている。最上家の不幸を治める意味を兼ねて、最上家の菩提寺である竜門寺の末寺として高松寺を建立したと考えられる。この寺は寛永年間(17世紀前半)鳥居・保科公の時代に建てられ、村社である神明様も預かっていた。村民の信仰も厚く檀家も増えたが、文化4年に焼失した。街道に面する山門には県内に20基の一つ、仏足跡が建てられている。本堂に入ると彫刻の美しさに驚き、飛騨のたくみが指導したものと思われる。明治の初期に彫られたと教えて貰った。さらに奥に入ると、天井画に小松雲涯(1831〜1919=中山町生)の菩薩・羅漢・花鳥の絵が描かれており、画工に感銘した。庫裏にまわると高い古木の杉木立に囲まれ、きれいな地下水が満面と拡がる「心字池」があり、5〜6月はつつじ、あやめの花も咲きそろい、多くの市民から親しまれている。書院造りの「松雲閣」が池にうつり、やまがたうるおい百景の一つとなっている。鄙びた江俣地区の街道は民家の垣根も美しく、名刹の高松寺で一休みできる所である。


●多くの人々が生活していた嶋遺跡。さらに人々がつどう

 昭和36年から始まった土地改良工事の現場(江俣三丁目〜桧町及び北町)で、嶋という水田一帯から多くの土器片や住居跡の柱根が発見された。山形市と当時の山大教育学部柏倉教授によって調査団をつくり、3ヵ年にわたって発掘調査が行われた。出土品は、柱・ハシゴ・立杵・木製鍬・弓・織器などのほか、土師(はじ)器として、かめ・つぼ・坏(つき)・こしきも出土した。生活用として、くし、玉類・穀物の種子・くるみ・うり・栗・栃・ひょうたんのほか、桃の実が大量に発掘された。7〜8世紀にかけて、山形の嶋には数多くの人びとが生活をしていたことが評価され、出土品の殆どのものは県立博物館で保存し展示されている。忘れられた国指定遺跡が江俣中央公園に復元されれば、東北一の古代公園として評価され、山形一の観光地に発展するであろう。
 次に江俣三〜四丁目であるが、寒河江方面から山形北部に通行できる二車線の道路が東西に走っている。昭和50年頃は道はできたが商店もないと思っていた。しかし、最近では、山形北部のビッグウイング、総合体育館・流通団地などと直接継がっているので交通量も増加し、中小企業の商店・会社が大きな駐車場(殆ど無料)を抱え、山形北部の消費者に開放していることに感激した。
 これから山形周辺の開発はさらに推進されると思われるが、町の中心部は土地が高くて大変であり、新しい商工業の誘致は郊外地ほど発展することを暗示していると考えさせられた次第である。

≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫