下条町
≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫
山形城下の要衝だった下条
今も庄内へ向かう車が続く
●三の丸の出入口だった下条口、今は交通の要衝・下条四叉路
山形市は今から約400年前(文禄2年から慶長6年ごろまで)に、最上義光公が城下町に発展させた街であった。現在の霞城公園の二の堀をめぐれば約1,850bである。三の丸は、東は済生館東口、西は霞城公民館前の通り、南は山形学院高前の二日町通り、北は第四小学校北側から下条町一〜二丁目まで広大な堀で、約3,300bであった。三の丸跡は南の吹張口、十日町の歌懸稲荷西にある堀跡、北は第七小学校正門前に歴史が刻まれている。三の丸の出入口として、大沼デパート北通り、十日町口、 鍄口、小橋口、北西には下条町二丁目にあたる所に下条口があった。
現在、NHK大河ドラマで上杉藩と徳川家康の対立が展開されているが、家康に味方したのは義光公であった。当時、最上家重臣の一人として活躍した延沢能登守(尾花沢の銀山を支配しており、二万石を所有していた)が下条口に屋敷を設けて守っていた。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで上杉藩を豊臣方に参加させなかったことは、長谷堂合戦を物語る屏風(最上義光歴史館)に描かれ、能登守の活躍を知ることができる。
その下条口は、文翔館から西へ向う国道112号の下条四叉路となっており、山形市郊外への交通要衝で通勤ラッシュが激しい。
●馬見ヶ崎川扇状地の末端に発達し、おいしい地下水が豊富
山形城下の下条という名称は上山に向う「上町」に対して呼ばれた地名で、能登守が支配する鉄砲衆が住みついていた所である。「山形城下絵図」を研究した高橋信敬の論文によって下条口の果たした役割が分析され、現代における交通要衝の役割に類似しているとも考えられる。
慶長年間(1600年ごろ)の下条町は下町とも記録されたものもあり、寒河江・谷地・船町などの出入口であり、士族の食糧をつくる百姓町であった。江俣・鮨洗・志戸田に至るまで出作りをして食糧の確保につとめたといわれる。古い下条町の通りは街村型の町割で、馬見ヶ崎川扇状地の末端に発達した町である。標高120bと低く、古く馬見ヶ崎川は北肴町あたりから数条に分かれて流れていた。その結果、下条町の家並毎に地下水が湧出して冷たい飲料水を利用することができた。古い街道筋に面する所には二段重ねの石垣が積まれ、庭木の花が四季毎に咲き、入口には太い松の老樹が歴史を物語っているようだ。
●三山詣での通り道、茶屋などもあって町民たちの憩いの場
下条町周辺には北肴町・宮町・古い町名で番匠町(大江町)などが東側にあるだけで、市日町から遠い所にあった。三山参りの出入口として役割を果たしていたが、旅篭より「休み所」として賑わっていた。元禄10年(1697)の記録では人数579人・屋敷数113軒とあり、嘉永2年(1842)で家数145・人数は791人で、明治14年(1881)は家数189・人数1,186人と急増している。明治の近代化の影響が人口急増をもたらし、宮町や銅町の工場に勤める人が増加したと考えられた。
下条町は山形城下の出入口であるが三山行者宿は少なく、山形城下の町民が楽しんだ所であった。特に、水が冷たくて美味しい町として知られ、70歳前後の人を含めて「心て太ん茶屋」でトコロテンを食べた。江戸末期の絵師「皆川義川」も三山道中版画にテン茶屋を摺りあげている。
明和8年(1771)の「松木枕」の記録に、冥加屋とか桔梗屋などの茶屋、色酒屋は姫路屋などで賑わったようである。夕涼みしながら、火縄を廻して(当時のライター)煙草を吸う男、酒屋の近くで色香で誘う娘や女房たち、浮名を立てようとする若旦那たちや三山詣りの行者たちがさ迷う風景に、仏教的な罰がくだるであろうと結んでいる。先の五日町紹介の時に「吹張口」を書いたが、下条町にも同じような夜遊び事が見られた。
三山行者の出入口である下条町には、元和年間に建立された伝昌寺、西得寺(浄土真宗)の他、清浄院(真言宗)の3ヵ寺が見られる。そのうち、最上家時代から山形城に尽くした寺は清浄院であった。開山は慶長5年(1600)満山阿闍梨で、義光公時代の城下絵図には下条口の近くに「火行上人」という屋敷がある。つまり、護摩を焚きながら祈願成就させる名僧であった。寺の記録には、長谷堂合戦の勝利祈願のため月山山頂で大護摩祈願をした功績が認められている。小さな寺院であるが、真言宗醍醐派の学僧寺として認められた古刹寺であり、静かな住宅街をつくりあげている。
●町の真ん中を横断した左沢線、山形の商圏は広がったが―
明治22年には山形市が誕生し、34年には奥羽本線で東京と結ばれ、中等学校が設置され、商工業の発展も目ざましく大きく変ってきた。中山・山辺・寒河江方面から通学・通勤する人びとは、政治家を動かして大正10年10月に左沢線が羽前長崎まで開通、北山形駅が設置された。実際に左沢線が完成したのは大正11年4月で、自宅から通学できるので、女学生から喜ばれ入学希望者も急増した。山形市の商圏は左沢まで伸びたが、下条町では町の中を横断しただけで、街道の商店も淋しくなってしまったという。
現在では竹原地区に国道112号があり、自動車の通過量が多いだけで利益が少ないが、新しい中小企業が道路に沿って見られるようになり、町の発展に期待できよう。
≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫