寒河江街道沿いの町々
≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫
昔も今も貴重な役割担う寒河江街道
山形に文化も運んだ最上川舟運
●旅人を大事にした寒河江街道沿いの人々、お茶を振るまう
山形城下の北西にあたる江俣から旧中野村に向う国道112号は、「寒河江街道」といわれた道である。この街道について、仙台の老人から聞いたもので、仙台の人達は笹谷峠や二口峠を越して山形城下町に泊り、「三山参り」をしたという。夜明け方に出立して城下はずれの寺で(江俣の高松寺か)一休みして船町まで出かけて一服したという。大変淋しい道で早く明るくなって欲しいと思ったが、寺の門前で休んでいた時に温かい茶をいただいた。夜明け方に茶を振るまってくれたバァちゃんの接待は忘れがたい思い出であった。船町の茶屋で朝のオニギリを食べていると漬物と茶を恵んで貰った。「御行衣を着てお山参りする人を大事にする」という人情深い村人達を懐かしく話してくれた。
山形市六日町から相生町―錦町―肴町―下条町を通って江俣に向う道の所を寒河江道と呼ぶ古老がいる。義光公が城下町を築いたころ三の丸北部につくった古い道で、錦町にあるお神明様はケヤキの大木に守られ、門前に古い石灯籠が建立されている。この地区は小橋町といわれていた所で、古い灯籠には元禄、安永、文化年号が刻まれ、家内安全と船中安全を祈って、山形十日町、七日町などの商人たちが奉納したものである。肴町は北の肴問屋があった所で、船町の舟運によって揚げられた干物、魚を扱っていた。下条町は三山行者の宿、茶屋があって賑わい、宮城、岩手南部の行者たちの休み場に利用されていた。茶屋では冷ヤッコ、心天(ところてん)、甘酒などを売っていた。
江俣は二つの川に挟まれた段丘上に村ができていた。現在の江俣北には、有名な7世紀頃の嶋遺跡があり、条里時代の大集落が発達し、多くの出土品は県立博物館に展示保管されている。現在は新興住宅街桧町が生れ、さらに北の方には第九小学校、済生病院、北市民プール、健康管理センターなどの公共的な施設ができている。
陣場を通ると稲荷様があり、この地区は義光公と父義守公とのいさかいから戦うようになり、義光公が陣地をつくったことから地名が生れたと伝えられている。戦国時代は父子・兄弟の激しい争いが生れた時代であった。金井地区の陣場、 吉野宿あたりには、牛子塚、尼寺など楽しい民話があり、馬見ヶ崎川の洪水がある毎に住民が悩まされた内容が多い。陣場の一つの伝承を紹介すると、陣場には武左ェ門という大きな酒屋があって、旅人たちから大変ほめられていた。酒を汲み交わしては三山参り、山形城下の艷ばなしで楽しんだ。その中に、地元の地名を歌にして楽しんでいたという。
陣場酒で酔っぱらった 心は吉野宿(尼寺のある所)
それで悪けりゃ 五軒、 去手呂(地名入り)
●最上家の歴史を物語る中野城、義守・義光父子の対立も
陣場を過ぎると新興住宅街の瀬波一〜三丁目の町並みがある。国道112号を車で内表へ向うと北西に月山・葉山が水田とともに見ることができるが、陣場側を見ると新しい民家が密集している所が瀬波である。江俣と陣場の狭間になっているために初めて気付く人が多いと思われる。この地区には、魚と豆を運んだ牛が二頭争って両方とも戦い疲れて死んだので村人は「子牛塚」をつくってやったという伝説があり、古くて新しい町といえよう。次の集落は内表で行者たちが一服する休石があった。しかし、現在は国立療養所山形病院、県立養護学校などの施設があり、田畑に囲まれた風景の美しい環境の中にある病院である。
中野城は山形城跡より北西約10`、須川東岸にあり、室町のはじめ応永年間(1394〜1428)に三代満直公の二男によって築かれた中世の城下である。当時は自然河川の須川や逆川を利用した堀もめぐらされていた。
中野城は最上家の後継者がいない時、ここから山形城主が選ばれた所で、須川べりでは寺社が13もある方形型の集落であった。また、中野城生れの人が15〜16世紀にわたって山形城主となっているので、中野城の存在が強かった。城跡は現在大郷小学校となっており、義守・義時父子と長男である山形城主義光公との対立が深まり、天正2年(1574)5月、寒河江街道の江俣、陣場、内表あたりを中心に合戦がはじまり、義時公(義光公の弟)の中野城が滅び、義光公が寒河江、谷地など領地を拡げられるようになった。米沢を支配していた伊達藩も親戚に当る義守・義時父子を援助していた。戦国時代は、伊達藩、最上藩なども親子の悲しい戦争があり、陰気な義光公という格付は止めて欲しい。
●最上川舟運の拠点・船町、 紅花を通して全国へ視野広がる
中野集落の西側にあたる船町は「舟待ち」から地名が生れたといわれている。中世の中野城の西は殆ど住宅はなかった所であったから義光公の最上川舟運の開さくから生れたと言うことができる。最上川の舟運は、平安時代の歌に「最上川のぼれば下る荷舟のいなにはあらずこの月ばかり」と詠まれているが、上流の舟着場は大石田で終っていた。上流には最上川三難所があり、義光公は天正12年(1583)に村山市の難所「碁点」を船が通れるように命じた。碁点の岩盤には削りとった跡も残っている。最上川舟運の大石田では、上郷・下郷と分けていたが、江戸期の元禄7年に、大石田の船に依頼しないで酒田まで荷物を運んだことから、船町の川港の役割が認められ、享保6年(1721)から船町・寺津の舟着場の利用が高まった。特に船町の船六艘を持つ阿部孫七は企画性があり、帆には家印をつけて、寺津、谷地を通り抜け三難所通過には特別に人夫を指定して、酒田港まで運ぶという近代的な経営感覚で隆盛を誇り、山形商人の実力を見せつけた。
船町は今では淋しさがあるが、船には紅花、青苧、上納米を積み、帰り船では塩、砂糖、 干物魚類、陶磁器、太物を運び、置賜、宮城県の白石まで運送していた。明治以降汽車が通るようになると馬車運送に力を入れたという。船町は物資輸送だけでなく、河岸茶屋、七日市場、祇園などの地名や関西の文化も取り入れていた。
≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫