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笹谷街道沿いの集落

≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫

緑豊か、自然あふれるたたずまい
自動車道が走り、交通の要衝でも

●凛として朱塗りの御堂、唐松観音。金売り金次の伝承も

 平成13年(2001)の冬は稀に見る大雪。 舗道が完備されていない旧街道は、歩行者も大変な状態であった。これは、小白川町から釈迦堂まで歩いて筆者が体験したことである。
 雪路を歩くと前方からの車はわかるが、後方や脇道から出て来る車にびっくりすることがある。いろいろ体験しながら民家の間から最上三十三観音第五番・唐松観音が見えた。朱塗りの御堂は雪のつもった古松群に囲まれ、寒さに厳しく立ち向かう岩肌の上に建っている。
 四季の変化に美しく古刹の荘厳さが心を洗ってくれる。寺にまつわる伝承は、 平安時代、一乗院の姫御豊丸姫が、金山のある宝沢で働く青年炭焼き藤太(藤原藤太ともいう)を訪れて、夫婦となり金売り吉次を生んだという。夫婦は守り仏としていた弘法大師作の聖観音像を、京都の清水寺に似せたお堂を建ててまつり毎日拝んだのがはじまりという。
 小白川から笹谷街道に沿って建立されている寺は、山形城主にとって鬼門にあたるため、義光公以後の鳥居・松平・秋元公らも寄進して、城下の安泰を願っている。
 唐松観音は何回か再建されてきた訳であるが、現在の御堂は昭和51年に再建されたもので、堂守の石井氏を中心に信仰深い人たちの寄金で生まれた。御堂を参拝すると、眼下に山形市街、白鷹山、朝日連峰などが見える。足下に見える馬見ヶ崎川の清らかな流れが和ませてくれる。東山形地区には山形市の浄水場があり、松林に囲まれて衛生的な郊外地となっている。また、馬見ヶ崎川から取水している灌漑用の堰は17世紀初めの鳥居公の時代に設けられたもので、笹堰や八ヵ郷堰などの取水口となっていることも発見できる。やはり三十三観音の仏様は、社会・自然に豊かな恵みを与えているようだ。
 笹谷街道の歴史を探ると、釈迦堂を中心に交わり、さらに分かれて高速道路、旧街道、蔵王登拝路(宝沢)に向かうようになる。山形市内では旅篭町から馬見ヶ崎河畔道、白川街道・三日町径から続く千歳山北東路及び国道286号が釈迦堂で交叉する。交叉する地域は異常な発展が見られるが、この地区は住宅街で目立つ商店が少ない。昭和40年頃から広い田畑地に県庁の移転に伴って官庁・学園地区となり、新興住宅街となった。100万都市の仙台市に最も便利な場所である事から、この地域の人びとは仙台に遊びに行くことが多いという。この地域には、古寺が多く、山形のそば街道、馬見ヶ崎川の清流を利用した釣堀などが目玉となるようで、自家用車のナンバーは他県のものが比較的多いのも一つの特徴ではないだろうか。


●奥深く、武士も恐れた有耶無耶の関。枝を折って道標に

 宝沢道をダム近くまで入ると雷神・賀茂神社・蔵王権現(市文化財)などがある。この通りの寺は殆ど曹洞宗の寺が多く、鈴木浩禅和尚の妙泉寺は江戸初期に開山された。しかし現在の混沌とした社会を考えるために、市民のための座禅会を開いており、市民からの参加者が多いという。高校教諭を体験した和尚は、 悩み多い青年を招いて精神鍛練、労働の尊さを体験させている。
 また、宝沢の蔵王権現堂の恐ろしい程の顔で社会を凝視している権現さんは、平成12年度において、室町期の面相であることを東北芸工大の先生によって明らかにされ、市文化財に認定された。京文化の原点とも言える釈迦如来像は拝観する価値がある。梅檀香木の彫刻で高さは160a、平安〜鎌倉の作であるが、山形と京文化を結ぶ仏像として県指定文化財となっている。釈迦堂の集落は唐松観音のふもとにあったが、江戸初期前後に移住したといわれる。
 山形城下では小白川・三日町街道を笹谷口という記録もあるが、笹谷街道は滑川=新山=関沢(関根ともいう)=笹谷峠=笹谷(宮城県側で峠の茶屋で最上屋という店があった)の順にみられる。
 本来の笹谷峠の高さが905b、関所は峠頂より雁戸山登山路に入ると発見できる。名称は応和2年(961)に制定された延喜式目の交通路として記述されている。平安初期に多賀国府と出羽国を結ぶ道であった。しかし、有耶無耶の関として恐れられた所であった。「もののふの出るや入るやに枝し折おりする とやとやとりのうやむやの関」(八雲御抄―順徳帝選)。この峠は奥深く、武士の出入りの時は枝を折って道標にした。笹竹灌木多く、霧や風にまどわされるウヤムヤの関である、と詠まれた。
 万松寺のあこや姫が、名取川の橋をかける松の大木(松の精・名取太郎)を運ぶ時に、優しく声をささやき合って峠に辿りついた事から、笹谷峠という伝説があり、大事に21世紀に伝えて行きたい。


●養魚場、川魚料理、そば。山形の新しい味をつくり出す

 元禄時代に上山市の金山峠が開かれる前は、最上と伊達を結ぶ街道で、庄内酒井藩も曲がり道はカゴから降りて歩いたという。行き倒れ、泥棒なども多い土地で、炭焼きする農民から救われた話、商人が伊達領で商売する「唐草風呂敷のとっちゃん」と愛称で親しまれている長谷川家の先祖の話など、川崎の人が語ってくれた。関根には関守の鈴木刑部、宿五件、新山は宿場町として大庄屋、伝馬、宿駅、茶屋などがあって、明治40年ころまで続いた賑やかな街道であった。
 現在は昭和52年に生まれたトンネルから、高速道で定期バスが仙台と直通している。しかし、旧街道筋はトラックは少ないけれど自家用車の台数は増加している。早く行くだけの旅より、山形の自然と人びとのふれあう旅が大事になった。
 昭和40年ごろから新山の養魚場から釣堀、川魚料理と変化させ、馬見ヶ崎川を生む清流の滝、散歩道をつくり、温泉旅館まで発展させている。
 そば屋のあかし庵、その原料を作る鈴木製粉は「石臼館」の店を出している。主人である鈴木彦市は「玄そば」の原料をつくり「山形のソバ」を全国的に広めた。今は「寒ざらしそば」も有名で、 間もなく「天保のそばがき」が山形を有名にしてくれると期待している。その土地と文化を知り、新企業を起す山形人がいることに誇りを感じ、市民全体で守っていきたい。

≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫