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鈴川・山家・沼の辺

≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫

大和朝廷にさかのぼる古い神社
山形の歴史を作る役割果たす

●老大木に囲まれた印鑰神明宮、大和朝廷から「銀の鍵」預かる

 鈴川村が山形市に合併したのが昭和18年(1943) 4月。山家・印役・双月・大野目・高原各地区が鈴川村に併合されたのは明治22年(1889)で東村山郡役所のもとにあった。山形市の商業街に最も近い村で、明治20年に山形市薬師町と双月の間に馬見ヶ崎大橋(つくも橋)が出来て、町のくらしを早く取り入れた村であった。山形県の明治11年町村地図によると、鈴川村は戸数が589戸、人口3,503人で、一家族5.9人、学校は上山家と高原地区に建立されていた。馬見ヶ崎川が洪水になると河岸の双月・下山家・印役などは大変であった。また、山形の町と結ばれていた橋は山寺参詣のルートとして、現在の二口橋だけであった。大正時代になって自動車が渡れる馬見ヶ崎大橋が完成し、双月・印役地区が鈴川の玄関口となった。この橋が利用され農村手工業の形態に発展したと考えられる。
 近代における鈴川地区の歴史的な概要を述べたが、古代においては、山形の発祥地と言えるかも知れない。つまり、鈴川町二丁目には大和朝廷から「銀の鍵」を預かった印鑰(やく)神明宮が建てられ、ケヤキ・アベマキの老大木の林に囲まれた鎮守の森が現存している。県指定の民俗芸能「田植踊り」を一番最初に奉納するという伝統は現在でも守り伝えられている。
 中世になると延文元年(1356)、宮城県の大崎庄(現在の中新田町)から出羽探題として斯波兼頼公が入形し、山家の庄を支配していた安倍氏を利用して山形城主になったという。山家河内守という名前が有名であるが、河内守の協力があったから最上家が長く続いたのかも知れない。
 昭和30年以降、町村合併や山形市内の町区改革に伴って〇〇町〇丁目と変り、鈴川地区も大変革を遂げた。高校時代の友人宅周辺は住宅が密集し、古い住民の屋敷には庭木が多く、花みどりに包まれた美しい町並みとなっている。鈴川地区は国道13号によって区分され、国道沿いの商工業は北部の流通センターまで続いている。文化史を物語る史跡も多く、楽しく散策できる鈴川郷土史研究会(板垣貞英会長)編集の「歴史マップ」も参考になり、地域の活性化を向上させると思う。鈴川は馬見ヶ崎川より分水される堰の水が美しく、上山家・高原を囲む里山の美しさと石碑の語る歴史に酔わせてくれる地区である。
 山形市南の山形大学医学部と山形駅―市役所―沼の辺を結ぶバスで、郷土史愛好会のメンバーと沼の辺貯水池に向かった。
 山桜咲くときにして小鳥らも声ちりぢりに峡(かい)いづるべし
結城健三の歌碑も建立されている。


●勤労奉仕によって築堤された沼の辺貯水池は憩いの水辺に

 昭和18年山形市に合併した鈴川では、戦中の食糧増産のために、旧制の中学校・女学校から勤労奉仕して165,300平方bの人造湖をつくった。村人と若き青少年の汗の結晶として生れた沼は、昭和43年に「鈴川公園・沼の辺貯水池」として市民から利用されるようになった。6年間という長い年月をかけて築かれた沼の水面には、寺の屋根や桜花などが美しく映え、約30人の太公望が沼のほとりで釣糸を垂れていた。日曜の朝、9時頃に貯水池に到着したが人影の少ないことに驚いた。1時間程散歩し、鈴川公園の整備されたすがたに満足したが、もっと多くの市民たちが楽しんでくれることを願う。もう一つの希望は地元産のたけのこ汁などを食べられる茶屋があり、季節感のある料理など、安く食べたり飲んだり出来る公園であって欲しい。
 沼の辺より流れる大網川に沿って上山家地区を通った。大網川は下流で野呂川と合流して新築された県立中央病院の方に流れる。山家地区は、市内で最も古い集落とも言われている。金勝寺を訪れる途中の鎌倉地蔵尊に立ち寄ったが、管理人が留守のため堂内を拝観することができなかった。子育て地蔵として信者が多く、オッパイが沢山出るように「乳房絵馬」が納められている。愛敬があって親しまれる地蔵尊である。
 山あいの古刹寺で曹洞宗の金勝寺に向かう。この寺は暦応3年(1340)南北朝時代に天龍寺(京都)を開山した夢窓国師の開創といわれ、建正寺と称したらしい。天文年間(1532〜1555)義光公時代に曹洞宗となったが、山形城主二代目直家公の菩提寺になっている。


●緑の丘につつまれ白壁の楼門、荘厳な環境にある金勝寺

 緑の丘に囲まれた古寺で、金文字で彫られた「仏母山」の額がある山門をくぐる。荘厳な風景に心をうたれ、白壁づくりの楼門を入る。本堂前には大日如来像と地蔵尊が安置され、観音堂・本堂・庫裡があり、本堂では5月の連休のためか、檀家の参詣で客人が多い。本堂左側の石段を登ると十二天の仏である摩利支天堂がある。自在の通力を持って常に前を歩き、不見・不知・害することなく、一切を念ずることによって災厄を払うことが出来るという事から武人の神、知恵の神として信仰されている。高校受験の子ども達にとって合格祈願の精神的な援助になると言われており、受験期に賑わう寺である。また、その北隣に、直家公の墓と数基の石塔が見られる。同じ五輪塔でも頭部が変っており、古供養塔の頭部とも類似していると思われる。
 何れにしても、季節の花や緑に囲まれた寺で、住職も心優しく市民に接してくれる由緒ある寺で、是非訪れて心を洗って貰いたい。
 国道13号を過ぎて山家町二丁目の「月山行人結衆碑」を目指した。この碑は、南北朝時代に建立されたもので、鈴川の歴史を語り伝える石碑である。刻印には「月山行人結衆等、貞治七季戉申3月(1367)巳上百余人敬白」とある。今から633年前、鈴川地区の人びとが月山詣りの講をつくって実行した記念碑である。県内で最も古い結衆記念碑で、一明院という寺(行人)が中心になって、当時の争いを鎮めるため、米の豊かなる稔りを求めて「お山詣り」を実行した史跡である。兼頼公が山形城主となって約10年目で、鈴川の庶民が山形市の歴史をつくる役割を果したことに、現代の人びとが誇りを持って語り伝えて欲しいものである。

≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫