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蔵王連峯と蔵王温泉

≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫

山形県のシンボルであり続ける
信仰の山、疲れをいやす温泉

●陸奥をふたわけざまに聳え給う―。二県にまたがる景勝地

 山形市東南部に蔵王連峯がそびえているが、その景観を見る場合は上山市の斎藤茂吉記念館あたりから眺めると山容の美しさがわかってくる。山形市の駅ロビーから県庁通りを見ると、切り尖がった雁戸山、なだらかな笹谷峠など、春の残雪シーズンの美しさは格別である。また、左沢沿線の中山〜山辺から見える美しい連山の景観は四季を通じて美しく、平地の果樹、山形市の夜景も旅人の目を楽しませてくれる。
 蔵王連峯の歴史を調べると、「蔵王山」という地名は地図に記されていない。昭和25年に、戦後の国民生活が苦しかった頃、毎日新聞社が提唱して「全国日本観光地百選」を公募した。市民は山形の自然景観の美しさを訴えようとして葉書運動を展開して、百選一位となった。連峯の中に、宮城県側の刈田岳(1,840b)、山形県側の熊野岳(1,870b)があり、後者が最高峰ということで蔵王山と呼ぶようになった。歴史・信仰に詳しい人びとは、今でも熊野岳と呼んでいる。
 歌人・斎藤茂吉の「ふるさとの山」は蔵王であった。
―陸奥をふたわけざまに聳え給う蔵王の峯の雲の中に立つ―
の歌碑は山形県側の熊野岳山頂にある。これより馬の背に下山するコースには多くの高山植物が火山礫に咲き乱れている。眼下には「五色沼」がある。こちらは刈田岳同様に宮城県側で、二県にまたがる景勝地は、青森の十和田湖と同様に愛されている山である。五色沼は直径約360b、深さ25bの澄んだカルデラ湖で、中央火口五色岳の地層は3000年前の年代が数えられるといわれている。火口湖は季節毎、時間毎に変化するので、登山者の心に訴えるものがある。宮城県側の刈田嶺神社には、命を白鳥に託した悲運の日本武尊(やまとたけるのみこと)が祀られている。一方、山形県側には怒りをあらわにした「蔵王大権現」が熊野神社に祀られ、蔵王山の噴火を鎮めている。二つの神様が「馬の背」 という地名で結ばれ、山の安全を守っているように見える。
 熊野神社までのコースには冬山で亡くなった仙台二中などの石碑が、霧の中のコースを確認させてくれる。登山は神仏・人が一体となって、山岳ファンのルールをつくってくれる。地蔵岳のお花畑には、フジバカマ・オミナエシ・アキノキリンソウなどが咲き乱れる。幕未(安永4年・1774)に、山形市宝沢の青年たちが、村で刻んだ石地蔵を頂上に建てた地蔵さんは四季を通して、人びとを安全に守り、心をいやしてくれる。
 登山客は、ザンゲ坂をゆっくり下り、パラダイスゲレンデに到着、一服すれば、冬のスキーを楽しんだ事などを語りあえる。ロッジ風のホテルは、ドッコ沼までつづく。上の台ゲレンデはロープウェーで眼下に緑のジュウタン、西欧風のホテルを見ることができる。蔵王は、山形の観光のシンボルといっても過言ではない。参考までに、ドッコ沼附近のダケカンバ・ブナの原生林などは、日本アルプスの1,800bくらいの自然景観と同じであり、秋のデワノハゴロモナナカマドの赤い葉は、どんな高山より美しく、アウトドア家族が楽しんでいる。


●吉備多賀由が開いたので高湯。さまざまな伝承などもわいて

 蔵王温泉は山形市が昭和30年頃に南村山郡堀田村を合併し、山形市の秘湯として有名になった。昭和38年に、自然豊かな保養地として国定公園に指定され飛躍的に発展するようになった。
 歴史的な伝承によると、天武天皇(673〜683)の頃に、荒れる蔵王山を鎮めるため、役の行者をつかわして「金峯山の蔵王権現」を祀って山の安全と民衆のくらしの発展を願ったといわれている。また、温泉について、日本武尊が東征した時、従臣の吉備多賀由(きびのたかゆ)が発見し、戦いの傷をいやしたという。多賀由が開いたということから「高湯」という地名になったらしい。
 さらに歴史的事実に近いのは、山形城主斯波兼頼公の時代(14世紀ころ)上野村の山奥に温泉があり、酸性が強く、毒虫に刺された傷口に効くというので、みちのく三高湯の秘湯として楽しんだという。また最上義光公が少年時代に、親子で高湯村の温泉に泊まった時、夜半に盗人が入って来たので義光公が退治し、父親より「鬼切丸」という名刀を貰った。刀は天正時代に月山鍛冶によって造られたもので今でも大事に保管されている。その頃の高湯村は戸数が約50戸、人口は320人くらいで、湯治場として親しまれていたと考えられる。
 温泉といえば、女中・遊女のエレジーがある。高湯では遊女が住むようになったことは寛文8年(1668) の記録が残っている。(郷土史の蔵王温泉の研究・斎藤久雄著による)。江戸中頃になると、 湯女から、仏につかえる比丘尼やゴゼに至るまで春をひさぐ状態を厳しく取り締ったと記録されている。
 戦前・戦後通じて蔵王連峯は山形市周辺の青少年たちの憧れの山であり、心身鍛練のメッカであった。観光第1位の年代には、四季を通じて130万人の若人が山と温泉を楽しんでくれたことを忘れないで欲しい。
 蔵王温泉を復興・発展させる材料は沢山ある。市内の小中高生の登山を計画し、心身の修練、自然環境の特性を知り、露天風呂で裸で話し合い、蔵王の良さを発見して貰い、娯楽(スキー、 アウトドア)、物つくり(コケシ工房)などで楽しめる総合的な観光地であることを市民自ら体験し、友を招くようにしたい。蔵王の特色あるネーチャートラべルを楽しみ、旅の安全を祈る往古の蔵王を再現することも大事である。

≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫