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平清水

≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫

千歳山のふもとにたたずむ
緑と清流と陶芸の里

 山形市中心街より東南に美しい千歳山(標高460b)があり、市民が森林浴を楽しみ、山形の歴史とロマン溢れるあこや姫伝説を語り合える里山である。人間誰でも上から見おろしたい願望を持っていると思うので、筆者も千歳山周辺を散策するのが大好きだ。幼い時は夢を持ち、青年時代は挫折に悩み、年老いて自分に逆らうことをやめて自然の雄大さに従い、自然や歴史などの遺跡を楽しむことができ、そのふもとにやきものの里・平清水がある。


●弘法大師が開いた村落。縄文後期の土器が見つかる

 千歳山頂の南西のふもとにあり山岳密教を開いた弘法大師(空海=774〜835)が滝山を中心に修験場を開き、歴史が流れて平清水に寺が造られたと伝えられている。山形大学の学生寮もある所では縄文後期の土器が発掘されるなど、古い時代からやきものがつくられていたらしい。平清水の青龍堂という窯場に、丹羽龍之介という手技の秀れた職人がいた。役人を見ると一文句を言い、市民には親切に語る職人で、職人ムキ出しの性格を持っていた。若い頃に龍之介窯を訪れた時、古いカワラケ(盃)を見せてくれた。「昔、侍たちはこの盃で酒を飲み、終ったあと、割っていた。それで酒をくみ交わすことを、一献(いっこん)かわす、ということになった」と教えてくれた。平清水では正月になると大量のカワラケや陶器を山形城に納めたので、城下町の職人と同様に諸役免除(租税が安い、町づくり労働免除、生産品の一部を献上)など優遇されていたという。青龍堂の庭に、職人を助けてくれた堀田藩(1700〜1746)が山形城から佐倉へ転封し、柏倉門伝や平清水を分領として、門伝に代官所を設けた。平清水はやきものをやり始めて苦しんでいた時に田内代官が資金援助をして立ち直らせてくれたという。今でも報恩碑を建て職人たちで守っている事を心強く感ずる。作業場には古い窯場が残されているが、現在では「梨青磁」という平清水独自の陶磁を生み出し、全国的に有名な民芸品として評価されたのも龍之介の努力があったことを忘れてはいけない。


●平清水焼をつくった職人たち。血のにじむような苦労と努力

 平清水は千歳山のふもと町であるため、緑地環境保存地域に指定されているので、広い屋敷と草花も多く、阿古耶姫を慕って訪れたお姫様が美しい足を洗った川というので「はづかし川」という清流の川が見られる。歴史ゆかしい大日寺は平泉寺の裏山にあり、最上三十三観音の発生伝承のある処である。平泉寺にはシダレ桜の老大樹、そのもとに山形の生んだ結城哀草果歌碑がある。その裏手に平清水焼の陶祖小野藤治平の碑が建立されている。福島県の相馬で学んだ藤治平は平清水の旦那といわれた丹羽治左ェ門の世話で平泉寺の東に窯場をつくり、村の娘を嫁にして定住することにした。藤治平は天保4年(1832)に没して同地の曹洞宗耕龍寺に埋葬されている。この寺の裏山には曹洞宗の万松寺があり、阿古耶姫のゆかりある寺がある。なお、平泉寺には藤治平のつくった「緑釉大香炉」が残されており、他に藤治平とともに指導した阿倍覚左ェ門(舘林藩秋元家の重臣)の美しい小さな香炉も見られる。
 平清水では山形城下の町人の援助を受けながら、周辺各地から工人を招き、相互に手技を磨きながら陶器から磁器づくりに努力した。弘化2年に磁器を目指すために尾花沢の上の畑にいる陶工長野信光を招いて、漸く磁器づくりに成功することができた。滝山の伊藤藤十郎、折原金十郎などは大地主であり、趣味こうじて陶工として活躍し、多くの磁器生産に努力している。多くの消費者は瀬戸や有田・鍋島などの伊万里焼を求めているので、平清水のやきもの師は呉須(あいいろ)で絵付をして美しい磁器を生産できるようになった。明治時代になると平清水には30軒くらいの窯場ができ、風呂桶、大きな水がめも生産した。食器づくりで美しい絵付を得意とした高橋青(政)山・丹羽定五郎・会田弥惣治などの職人の他、市村弥兵ヱが美術工芸品の千歳焼工場を明治40年ごろに設け、県内の学校に保存されているのが見られる。平清水焼をより秀れた陶磁器に発展させるために、京都・九谷・有田などに小学校を卒業すると奉公に出かけ、職人の手技を修業し、帰ってから、当地の土になじめるように努力したという。 地方窯の宿命は大量生産が困難で、さらに戦争によって職人たちが召集されて窯を閉鎖するようになった。


●伝統工芸展などで大活躍。独自の技を生み出す若き陶工

 戦後、土管づくりを国から命令されたりした平清水は復活するのに一苦労した。食糧不足、不景気にも見舞われ、画家の石川確治、高嶋祥光、漆芸家結城哲雄らが平清水で絵付師として働いている。多くの窯場がつぶれる中で、丹羽龍之介が昭和22年梨青磁のやきものつくりに成功し、昭和33年にベルギーのブリュッセルで開かれた万国博覧会に出品してグランプリを受賞、良知は日本伝統工芸会員である。現在は6窯で工芸作家として活躍する職人が多い。
・阿倍平吉窯 阿倍覚左ェ門の流れをくむ平吉窯は昭和46年に陶芸教室を開き、矩行は辰砂釉の美しいやきものを作っているが、現代の生活財として階段手すりとかスピーカーの箱なども作っている。
・天沢窯 阿倍窯から分れた工芸家で有名な製品は蔵王天目茶碗、花瓶など独自の陶芸の技を生み出し、多くの弟子を育て、 雷神窯、 昌山窯などを生みだした。
・七右ェ門窯 明治2年ごろより分家して現在まで続き、昭和46年より教室を開き、県内外から数多く研修にやって来る。父子ともども民芸陶芸に努力している。
・文右ェ門窯 土管焼を引継いだ渡辺昭三は民芸陶器の伝統を守り山形市の伝統工芸産業賞を受賞。
 以上の窯場で生産されたものは日本伝統工芸展、東北展などで入選し、若き陶工たちは、県展、北斗展で活躍するなど大いに期待できる町である。

≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫