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山寺

≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫

静寂の中に凝縮された芭蕉の句
世界に誇る歴史、 文化遺産

●知られすぎた一句。それをめぐっていわゆる「セミ論争」も

 芭蕉と曽良がみちのくの旅に出発したのは元禄2年(1689)5月16日(旧暦3月27日)の早朝であった。草加に泊り、みちのくを旅した西行法師や歌人たちの跡を辿り、史跡や奥深い自然の中の旅を求めた。
 白河の関あたりでは菜の花咲き乱れる道を通り、仙台に入ったのは6月20日、平泉を6月28日に出立して出羽路に向かった。最上町の封人の家有路宅に雨のため2日間泊り、山刀伐峠を越えて尾花沢の紅花商人鈴木清風(師弟関係)宅に到着したのが7月3日(紅花は半夏一つ咲きといわれている日である)であった。鈴木清風は商人であり、俳句の道を求めて芭蕉門下で親しく、鈴木宅と養泉寺(清風が建立した寺)に10日間も逗留した。尾花沢を早朝に出発し、山寺に到着したのが午後3時頃といわれ、紅花咲く畑道を通り、
 まゆはきを俤にして紅粉の花 と詠んでいる。
 山寺の宿坊に泊し、奇岩の寺、 真夏の中の涼しさと歴史の深さ、荘厳な古刹寺の印象を深くして詠んだ句がある。
 閑かさや岩にしみ入る蝉の声
 この句が、斎藤茂吉のアブラゼミ説・夏目漱石門下小宮豊隆(評論家)の間で「セミ論争」が始まり、茂吉が「絲筋のように澄んでいるニイニイ蝉が良い。自説のアブラゼミ説は暑苦しく、太く濁っているアブラゼミ説は現実的だ」とまとめてセミ論争が終った。山寺という天台宗霊場は、現代の人びとにも話題を与えてくれる所だ。
 山寺は宝珠山阿所川院立石寺といい、天台宗の寺院で庶民の参拝する東北の霊場である。山寺の茶店で売られている「円仁さん」は開山に努力した慈覚大師のことで、マンジュウにして善男善女が食べて山寺を楽しんでいる。円仁は栃木県生れ(延暦13年=794)で、唐に出かけて仏教を学び54歳の時に帰って、後に比叡山の天台座主になった。山寺の開山は貞観2年(860)と言われ、同6年71歳で山寺で亡くなったと伝えられている。山寺が霊場と言われているのは、円仁僧が入定した「入定窟(くつ)」が開山堂に沿って拝むことができるからである。資料館にはその時代を象徴する桂木で彫られた大師の頭部が展示されている。
 山寺には、日本の歴史を物語る遺跡が多いことでも有名である。山寺の門前町から石段を登ると国指定重要文化財の建造物、根本中堂がある。ここには、開山以来消えたことがないと言われる「法燈」があり、修行僧たちの手によって守られている。比叡山が織田信長によって延焼し、延暦寺の法灯が消えてしまった。その時、山寺の法灯を京都まで運び、再び天台宗の聖地に火を燈(とも)すことができた。21世紀の山形の梵鐘をつくるのに灯火を分けて貰って鋳造している。


●奪衣婆、四寸道、石段を上るにつれ広がるマンダラの世界

 山門をくぐれば姥堂、三途の川のほとりにある樹木の下に奪衣婆がいて、罪人(つみびと)の衣を取り上げる役を持っている。山寺は、三途の河原からいろいろな難しい参道があるマンダラの世界といえよう。途中に岩と岩の間の道は約15センチ幅、大師や修行僧が通った「四寸道」があって、登拝者は喜んで円仁さんの足跡を踏んでいる。山路はゆるやかな傾斜で、大きな角礫凝灰岩があって磨崖墓碑(まがいぼひ)が彫られている。江戸初〜中期の年号が多い。下の方には、後生車(別名、念仏車とか地蔵車)が大量にある。仏さんの菩提碑といわれ、車を廻してやると早く極楽(ごくらく)にゆけることを知っている人は、念仏を唱えながら廻している。
 芭蕉にまつわるせみ塚は、途中のコンニャク屋の近くにあり、村山市生れの俳人壺中らが建てたもので、俳句を詠む人は必見に価するが、玉コンニャク・氷水などを食べながら木立の中で休むのも良いだろう。
 仁王門の石段が急であるが奥の院は一つの極楽園といえる。小さな寺院を前にして、庶民の願いを込めた卒塔婆、後生車が数多く参道に立っている。参拝者の鳴らす鐘の音、灯などが絶えず納められる。最上公の納めた三重小塔、義光公の御霊屋、金灯篭、如法堂の大仏さん、登って参拝し、五大堂に行くと眼下に立谷川渓谷と対岸のいろいろな新建造物が見られる。
 東北の霊場山寺は住民の伝統行事である「夜行念仏講」と共に山形市の文化遺産である。山寺駅に下りると仙台方面から訪れるお客さんの方が圧倒的に多く、観光バスも他県の会社名が溢れている。山寺の歴史的な観光パンフレットの有無を、観光案内所で質問したら、六つ折のパンフレットがあった。そこには、門前町のこと、対岸の諸施設のこと、山寺を総合的に知るパンフレットはなかった。


●心なごむ民話も残る。シルバーガイド「きざはし会」が活躍

 山寺には麓に住むシルバーガイド「きざはし会」があって山寺の霊場を案内してくれる。
 高瀬地区の風立寺・二口峠・秋保温泉の大滝と慈覚大師の山寺・磐司万三郎と大師さんが語り合って、地元の人びとが狩りをすることを止めた話・動物が喜んで大師さんにお礼をしたのが獅子踊りの始まりであること。門前町の人びとと語り合って楽しい思い出にしたい客がいることも知って欲しい。寺と町というものは表裏一体になってこそ観光の発展を生むことができる。
 根本中堂の隣に「日枝神社」がある。慈覚大師が一山の守護神として祀ったもので、京都の坂本にある日吉祭りを参考にして「山王二一神」をまつり、4月の申の日に祭りを行ない、山寺に舞楽を奉納していた。門前町の人びとの祭りである「山王祭」は古い御輿が3台(今は2台)連らなっておみ坂を下り川原町を北進して八王子の元宮跡で宣詞を上げる。
 対岸の南院跡地に、霊場山寺の景観にふさわしい「山寺芭蕉記念館」がある。山形市制100周年記念行事として市が建設した。同じ平成元年には私企業による和風型の「風雅の国」が建設。和洋美術・ガラス工芸品を展示する後藤美術館などもある。
 歴史的史跡、自然景観を活用した観光地の開発はまちづくりプランに大きな影響を与えると思う。

≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫