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薬師町

≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫

善男善女が詣でるお薬師さま
緑を求めてにぎわう植木市

 薬師町一丁目〜二丁目の東西に走る道路は、明治45年5月8日、薬師祭りの午後の山形北部大火後、大正2年に改修された所である。「新築西通り」と言われている道も同年つくられたものであるが、山形市生れの人びとにとって「祭りのふるさと」 になっている。


●もっとまけて、勘弁して―江戸時代から続く薬師祭植木市

 桜が散り、新緑の香りが町家の庭先に溢れる5月初旬の「植木市」は40万前後の見物人が集まる祭りで、くらしを彩る植物、鉢ものを求め、値引きの交渉の高らかな声で賑やかになる。江戸初期から続いた薬師祭植木市は、伝統的な庶民信仰に息づいた祭りの原点を教えてくれる。
 祭りは老若男女が楽しくお薬師様にお詣りし、家内安全、無病息災、商売繁昌を祈り、そのあとに祭りの中に入ってゆく。宗教の区別なく庶民信仰という生活の中の宴(うたげ)である。
 薬師町という地名は、義光公の時代の宮町の小字名になっており、庄内・最上地方から国分寺の御本尊をこの地に遷座させたことから発展したと考えられる。以前に別当であった寺の名称は金光明護国山薬王院天台宗柏山寺薬師堂といわれている。寛永頃には柏山寺と薬師堂があり、城下絵図に描かれているが家並が見られず、山形城下北東の守護神として鎮座したと考えられる。また、馬見ヶ崎川の対岸にあたる鈴川町(昭和17.4合併)を通って、山寺詣りをする道があるので、渡し場の守護神のある集落であったと考えられる。柏山寺と薬師堂の間にある鐘楼は馬見ヶ崎川増水の際、鐘を鳴らして危険を知らせたという。
 安政2年の東講商人鑑には薬師堂並びに柏山寺の絵がくわしく記載され、その荘厳さが伝わってくる。
 明治12年、宮町の戸数は366戸、人口は2,054人の中に薬師町が入っており、明治22年山形市制が敷かれて、宮町から独立している。
 薬師町と鈴川町を結ぶ馬見ヶ崎川に架けられた「つくも橋」は初代県令三島通庸の時に改修され、往来も楽になり、明治17年には、お薬師様を中心にして池や千歳山を模した築山をつくって「千歳公園」と命名された。明治33年には戌辰の役で亡くなった人を含めた「県招魂社」(千歳の宮)が建てられている。日露戦争勝利を記念して神社前に桜を植えたが、防虫のため切り取られ、現在の桜は二世で約20年経て美しい桜花を楽しませてくれる。


●山形城下北東部の守護神。渡し場の安全も見守り続ける

 お薬師様が鎮座するので薬師町という町名が生れた訳であるが、御本尊の名称は殆ど知られていない。正式には薬師瑠璃光如来といわれ、須弥山(しゅみせん)の東方浄土におり、医薬の守護神として祀られている。12の大願を成就し、衆生の病苦の救済にあたる仏さまで、聖武天皇の代に、奈良薬師寺を建てたところ、病気が治ったという霊験があって、各地に国分寺が建立されるようになった。天平13年(741)のころである。
 「国分寺薬師堂の標柱」は嘉永7年(1854)に山形城下の町人新関金八他22名が施主となって建てられたもので、刻文は「天下泰平・通船安全」とあり、山形豪商の安全と繁栄を祈願したものである。近くに円筒型の石灯篭が一対あって21名の名前が刻まれている。享保11年(1726)に坊原村石工会田吉右エ門、山口市十郎他1名以外、18名は薬屋とか医者の名が刻まれていると言われているが調査すれば、幕末における山形の医学が明らかにされよう。また、門前から拝殿までの敷石は慶応4年4月に敷かれたもので、佐藤利右ェ門、利兵ェ、佐治吉左ェ門、高田屋、中村林兵ェらの8名の豪商の名が角灯篭に刻まれており、商人たちの信心深い態度が伝わってくる。
 敷石を歩いて行くと右手の方に芭蕉の句碑がある。慶応3年(1866)に建立されたもので刻文を判読するのが大変であったが、山形市史主幹の武田喜八郎が解読している。
「松風の落葉が水の音すずし」
 山形郷土史研究会の「研究資料集」第九号に詳細に発表され、幕末における城下の俳人たちの活動がわかり、文化の高さを知ることができる。
 左側には「大工業組合創立記念碑」がある。安山岩の大きな石を割って磨いた石碑で、薬師寺本堂に関係のある石碑である。明治45年に建てられたもので、火災で本堂が焼け、東原町二丁目のもみじ公園にあった宝幢寺の本堂を移築した大工たちの記念碑である。真言宗宝幢寺の所有者佐伯氏から柏山寺がゆずり受け、大工たちが2万円で工事を引き受けたという。総ケヤキ柱を一本も切らずに運搬するために、市民が寝てから午前1時〜3時の暗い道を、牛馬車を利用して運んだと伝えられている。本堂の土台石、屋根瓦もすべて一枚もこわさずに運んだ大工たちの心意気に感銘する。総ケヤキの本堂は間口14間半、奥行八間半、入母屋造りの形をとり、拝殿の板は九aの厚さで悠然たる御堂が再建された訳である。内陣には延焼からのがれた12仏(神像で12支)、日光・月光菩薩、観世音、地蔵菩薩などが安置され、参拝者が座して参拝できる所で有名である。


●東北で一番早く開業した写真師・菊池新学の顕彰碑が建つ

 東北で一番早く開業した写真師菊池新学(天童市若松生れ、天保3年[1832])の顕彰碑が左側に見ることができる。新学の父常右エ門が若松寺僧で村との境界論争で江戸に上り、新時代の思想・外国の高い技術にひかれて、写真技術を学び、新学に便りを送って文明開化の世相を知らせた。新学は横浜の下村・上野の横山写真館で修行して、慶応3年に帰郷し、翌年小清水本陣の御門を借りて写真屋を開いた。三島県令、池田成章、立石寺の清原僧正、新築された済生館、新県庁街などの写真を撮り、高橋由一画伯の絵に大きな影響を与えた。文翔館の県庁(由一画)は横図上新学の写真と殆ど同じである。新学は県内に多くの弟子を育て、由一画伯のスケッチ画に協力させた。息子たちはオリエンタル写真工業を経営、父の顕彰碑を建てた。他に東北で始めて種痘予防を行った長沢理玄師(1815〜1863・秋元藩御典医で、山形市横町に生れ秋元氏が館林に移封してから、山形に戻って種痘の予防につとめ、城下に住む8,941人に種痘を施した)の碑も、大ケヤキの緑の中に息づいている。

≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫