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円応寺町・宮町四丁目

≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫

町名は兼頼公創建の寺号に由来
垣間見る南北朝時代の歴史

●大人も子供も鍋を囲み、山形の秋を全国へ発信する芋煮会

 国道13号の大野目交叉路より西方に向うと馬見ヶ崎川の二口橋を通る。秋の馬見ヶ崎川河畔の河川公園では、山形の秋の名物「芋煮会」が催され、煙がたなびいている。
 以前、アメリカ人を招いて野外パーティーを開いた時に、美味しい里芋のことを「タロ・ポテト」と教えて理解して貰ったことがある。南の太平洋の島々に自生・栽培されていたタロイモが改良されて、北国の山形で「日本一の芋煮会」が開かれることを予想する人はいなかったと思う。
 日本一の芋煮会はテレビ放送され県外の人びとも多く参加するようになった。山形商工会議所の青年部が、何かデッカイことやれないかという話合いをし、山形は鋳物産地、馬見ヶ崎川河畔の芋煮会を結びつけて、日本一デカイ鍋で食べる会を開こうという事から始まった。今は第二世の大鍋、三万食の芋煮会に発展したが、経済停滞期の時代に商工会議所青年部の行動力と情熱が地域開発の発展を促進させたということができる。
 芋煮会の始まりはわからないが、秋の収穫期ころに河原で野趣豊かな鍋を囲んで食べることから始まったらしい。大正時代の馬見ヶ崎川堤防で食べている写真が残っている。また、旧山形高校生(現在、山形大学)のヤミ汁(馬肉とか鶏肉を入れた)から芋煮会か生れたという説もある。
 芋煮会は、馬見ヶ崎川上流の唐松観音から、下流の円応寺町(二口橋)あたりまで約2.5キロの河畔で、小中学生から、家族パーティーに至るまで楽しんでいる。山形人はコンニャク・里芋・肉・ネギの入った芋煮が大好きでコンニャクの消費量は山形県が日本一といわれ、山形市の日本一の大鍋も、20世紀の大いなる庶民的な文化遺産といえるだろう。


●円応寺町は宮町と銅町が合併、円応寺があるのは宮町四丁目

 今年の夏は旱天熱暑の日が続いたが、9月3日(日)に開かれた日本一の芋煮会の午前中、暫く振りの小雨模様、馬見ヶ崎川の催し会場は客が少ないと思って出かけた。ところが、小雨の天候が福を呼んで熱い芋コ汁を大人数で喜んで食べていた。食べ終えて、河畔の下に行くと陸上競技場があり、木立も緑深く、河原で若人たちが鍋を囲んで楽しんでいた見知らぬ間ながら声をかけて見ると、円応寺町で暮している山大生で、円応寺の近くかと尋ねると知らぬといわれた。
 会話の中で、私の方が間違っていることに気がついた。円応寺町は宮町と銅町の一部が昭和39年に合併されて生れた新しい町で二口橋から第五中学校までの住宅街であることを確認した。円応寺のある町が宮町四丁目であり、むかしの山寺道の出入口は二口橋であることも知ることができた。山形の街角ウォッチングを実行しないで、歴史書ばかり読んでいては書けないと反省した次第である。
 円応寺町の名称は、真言宗智山派円応寺より生れたもので、明治14年の統計によると、山形市の人口は22,892人、戸数は4,173戸、町名は31カ町で、宮町一丁目から馬見ヶ崎川河原まで円応寺町といわれていた。現在の六日町から北に向う主要地方道山形・天童線の旧道を「円応寺通り」と呼んでいた。現在の円応寺町は、馬見ヶ崎川が自由に流れていた所で、昭和25年ころは、洪水の心配がなくなり、漸く民家が建ち始めたころで、畑、果樹園などが多かった。
 日本史の年表を見ると文保2年(1318)後醍醐天皇即位後、公武の地位をめぐって国内乱世の時代となり、北朝・南朝とわかれ、南朝方の武家は北畠顕あき家いえ・新田義貞らが東国の北朝方を攻撃した。俗に「建武の中興」といったが、「南北朝時代」の方がわかり易い。
 この時代、山形地区も南朝方が強く、年号も北朝は建武年、南朝は延元元年(1336) となり、1392年まで続いた。長年の戦乱に困り、山形市岩波の石行寺に、当時写経された大般若経(文和3年(1354)北朝方)の後書に平和な世になって欲しいと祈文が記載されている。
 このような争乱期に、斯波家兼公(現在の中新田町)の二男兼頼公が北朝方の出羽按察使(けびいし)将軍(足利北朝方の司令官)として延文2年(1357)山形に来た。当時の山形地区は、寒河江、谷地、荒谷、天童などが南朝方であり、山形に居住する所はなかったが、北畠顕信の敗北もあって、北朝方に協力する政策も見られるようになった時期であった。山形城を築くために、山形市北部にあたる西根小但馬守屋敷に仮住いを設けた。(円応寺の西で現在の山形城の北鬼門にあたる)その後、山家河内守の協力を得て定住できるようになり、北朝方の支配も安定するようになった。
 兼頼公は山形扇状地の特徴を生かして、湧泉地帯に山形城の建設を行った。また、地元の民心を得るために山寺の根本中堂を再建、千手堂の再建も行った。仮住いをしている東側に、日ごろ、信仰している約15aの観音像(伝弘法作)を奉安するために、延文2年に円応寺を創立し、信仰心を高め、民衆の安全を図った。兼頼公の信仰心の深さは、円応寺境内にある板碑(延文2年と紀年されている)があり、8月3日に建立、刻印はキリーク梵字で「金剛手菩薩」を現している。


●鈴川北部の花楯山から花を運び、朝市が開かれた尾萬稲荷

 現在の最上義光歴史館周辺に兼頼公は山形城を建てた訳であるが、古い板碑があり、文和4年(1355)の碑で築城前の年号で、南朝年号でもあるので、城跡とは全く関係がない。しかし、北朝・南朝年号が自由に刻まれている社会であったことも知る貴重な文化財である。円応寺の町名は寺との関係から生れたことが理解されたと思うが、江戸時代の道は、第五中学校北にあたる尾萬稲荷前を通り、堤防に沿って下ると、木橋の二口橋となって「花楯」につながる山寺街道といわれた。元禄10年(1697)の記録によると円応寺町・宮町四丁目を含めて、人口70人、戸数26軒(空家12軒)であった。それから300年の現代の人口は百倍となっている。円応寺町には、鈴川北部の花楯山から山形城に花を運び、尾萬稲荷で朝方に花売りが開かれたといわれている。

≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫