宮町
≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫
まちのシンボルは鳥海月山両所宮
今に伝える七不思議
商工月報編集者から「次の町はどこになるか」という連絡が入り、気軽に「四日町あたり」と言った訳であるが、最新の地図には「四日町」という町名が消えてしまっている。私も老いて来たなぁと感じ、現代の目で確かめようとサイクリングに出かけたところ、四日町派出所(交番)も消え広い道幅となり、辿り着いた所が両所宮になった。つまり宮町一丁目から二丁目そして三丁目まで行ってしまった。
山形市は戦後昭和25年の統計によると人口104,891人、世帯数21,237戸、一家族4.9人というくらしであった。そのなかで、香澄町19,802人、次いで宮町11,940人である。当時の宮町は現在のように一〜五丁目までの広さでなかった。
●「後三年の役」に勝利し、人びとと喜びを分かち合う
宮町は「鳥海月山両所宮」がシンボルとなっている町である。縁起によると、康平6年(1063)正月18日に両所宮を創建したという。当時、出羽の国では安倍貞任(さだとう)という支配者が中央政府に従わないということから「後三年の役」の戦いが始まっていた。政府から派遣された源頼義が羽前の清原武則の援助を受けながら勝利を得るために、中国のむかし話にちなんで勝利の神(荒ぶるものを説き伏せる神)として、鳥海山の大物忌大神・月山の月夜見命を祀った処、貞任・宗任(むねとう)の強力な軍団を滅ぼすことができた。清原領に戻った頼義は山形の南に「八幡宮」、北の方に「両所宮」を建て国の平和と安全、武門吉事の宮と称して人びとと共に喜びを分け合ったという。両所宮山門の前には「寺中」の人が住み、護摩堂、如法堂、 八角坊などの屋敷があり、頼義の家臣留守役須藤氏を祭官にして祭礼が行われたと縁起書に記されている。
宮町の大きさは「両所宮」前から北山形駅前を通り、第三小学校より西側にくだる「横宿」(宮町一丁目)まであり、今では四丁目〜五丁目まで拡がり、城下町時代の四日町(交番)あたりは相生町とか錦町・宮町五丁目と分割されてしまっている。終戦後中学生となり汽車通学の通り路、横目で交番を見ながら右側通行、左側を歩くと注意するポリスがいるのか確かめながら通学した想い出がある。
●「天狗の七つ石」をはじめ、 不思議がまちにいっぱい
山形市内には学校などに七不思議という恐い話があるが、町を歩いて不思議な伝説が残っている所は珍しい。昭和22年に開かれた「原田洋裁学園」は現在山形女子専門学校となって、折原綾子学園長が校長となっている。この学校はハッピーミシンの原田好太郎によって戦後の女子教育の向上をはかるために創立されたものであるが、この附近に不思議な伝説が多い。女子専門学校の近くに、生活綴り方教育(北方教育)に尽くした田中新治がいた。昭和50年頃には宮町三区老人クラブ天狗会をリードし、(三区は旧地名―天狗橋―)宮町の七不思議をまとめ楽しく現地を廻ったことがあった。
@ 両所宮の片目の鯉 後三年の戦いの時、頼義の忠臣兼倉権五郎景正が敵の弓矢の中で戦い、右目に矢が当り、池の水で洗ったところ血が水を染めて池は真っ赤になった。鯉たちがみんな片目になったという。
A しづみ坂(スズメ坂) 両所宮門前の道を右に向かうと南北に走る旧13号がある。北は馬見ヶ崎川の堤防が高く、町の方が低くなっていた。あまりにも急な坂なのでスズメも道におりると転んだそうだ。
B 慈光寺の扉なし門 宮町の宮前には天狗が住んでいて、門に扉をつけると一夜にして消えたそうだ。
C 五本杉北山形駅前の四辻は天狗の住み家で、下の方には多くの蛇がとぐろを巻いていたという。
D 天狗の七つ石 山形電鋼の前にある「史蹟七ツ石」である。田んぼの中に七つの大石があり、百姓たちが片付けると翌日は元に戻っているという。七つの坪石ともいわれ、長者屋敷の庭石を天狗が守っているのだともいわれている。
E 天狗橋 宮町堰と宮前の参詣道に三尺幅の大きな石が小川に架けられていた。むかしは橋はなかったが、一夜にして橋ができたといわれ、それ以来「天狗橋」という名で呼ぶと天狗も悪さをしなかった。
F こうの池 宝沢に住んでいた金売り吉次がお宮詣りをした時、数羽のこうの鳥が泳いでいた。吉次は、小判を出し泉で洗って、鳥に投げたら二度とこうの鳥は来なくなったという。池の魚たちは生きのびて、泉の水も枯れないという。
●精密な金属機械製品をつくり出すまちとしても知られる
山形城を築いた斯波兼頼公も宮町より市中央に出て城をつくった。宮町は、平安末期から発達し、北の守りを固める主要な交通路であった。しかし、七不思議などの伝説が物語るように、馬見ヶ崎扇状地の末端、低湿地で湧水地帯であった。昭和30年ころまで奥羽本線の東側には稲穂が実っていたが、工場が密集し、山形から精密な金属機械製品を生みだしている所として有名である。町民も「お宮さん」を中心に祭礼行事を復活させ、工場町の中に、心の安らぎの場と人びとの交流を高めようと努力し、伝承文化も保存するすがたに感心しながら「お宮さん」の美しい山門を見た。門前の自動車道路に気を配り、旧国道の新しく改修された通りを歩いて見たが、人影が少ない感じがした。ゆったりとした歩道に休む所があり、町内の人達と昔語りのできる町にしたいと思った。
≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫