鍛冶町(宮町五丁目)
≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫
包丁、鋸、研ぎ澄まされた切れ味
伝統の技を現代に引き継ぐ
●斯波兼頼公が山形入部の際、武具を作る職人をつれてきた
先日、第三小学校を訪れた所、渡辺教頭から学校周辺の事や学校沿革史などを親しく教示していただいた。この地域は宮町一〜五丁目に生活する子ども達が多く、若い父親たちもサラリーマンが多くなっているようであった。街を歩いて見ると、学生時代に聞いた槌の音、旋盤の火花なども殆ど聞こえない街になっている。町名も大きく変化しているので、山形城下町の鍛冶職人が定住した町も宮町五丁目となってしまった。 鍛冶町通りに面する職人の家は切妻型の平屋で、仕事場が土間になっており、三角屋根には煙貫の格子があり、道側には出来上がった刃物や鍬・鎌・鋏などが店先に並んでいた風景が思い出される。山形の打刃物は研ぎ澄まされた切れ味と耐久性があると好評を得ている。特に剪定鋏、包丁などは県外からの注文が多いという。市民は、生活のなかに山形の良さを考えて利用して欲しい。
この町の歴史は、延文元年(1356)斯波兼頼公が出羽探題として山形に入部したことから始まる。兼頼公は円応寺の側で過ごしていた時、武具をつくるために鍛冶・鋳物職人を供につれていたという。兼頼公が出羽を支配して城をつくり、職人たちを南西の方に住まわせて、手仕事に励んだといわれている。
その後、義光公の城下町づくりが整備されるようになり、火を利用して生業を営む職人町を三の丸の北、しかも馬見ヶ崎川(山形北高〜第四小学校の東西の通りを流れていた)の北辺に鋳物・鍛冶町を設けた。火防安全を願って工業街を設定した都市計画は、近代的な思考力を持った義光公ということができる。さらに義光公は、城下の産業振興と安定をはかるため、職人町の人びとに御免町(諸役人足免除)の庇護政策をとった。鍛冶町はさらに発展し、円応寺までの通りを新鍛冶町として発展させた。
鍛冶町は元禄年間ころには新鍛冶町が形成され、職人は約120人位活躍していたといわれている。当時の「山形故実録」によれば屋敷数38軒、人数249人であった。新鍛冶町は独立して、屋敷数が60軒、人数248人であるが組頭などは前者の方にあった。本鍛冶町は、銅町・四日町と羽州街道沿いにあり、江戸期が安定してくるようになると農具の生産も高まり需要も多く、山形の特産物といわれるようになったという。
●最上川交易、日本海沿岸交易などで生産の向上を目指す
元和8年(1622)に領主が変り、町民の組織のなかで仕事に対する熱意が高められて発展したと考えられる。これは、現在の不況期を考える場合に、重要な視点になる。
町人自身が町を改善して発展させた、地域リーダーづくり、協力する行動力など過去の歴史から教えられることが多い。江戸後期になると職人たちは、鋳物職人と同様に株仲間、世話方管理による職種の鑑札を発行して相互扶助をはかりながら、生産向上を目指している。また、江戸時代の打刃物職人たちは、 最上川交易と日本海沿岸の港からの交易で、出雲鉄(和鉄)を求めて鍬・鎌・包丁・鋏などを作った。八日町の行者宿では、鋸・包丁・鎌・鋏などが三山参りの土産品として喜ばれたという。粕谷家の古い資料によれば(山形市史資料参照)、石見鉄、出雲鉄を求め、先述のものだけでなく、タンスの手、飾り金具をつくって二日町・八日町の市場と取り引きしていた。
街路から見られる風景も少なくなってきたが、そのなかでも鋸業だけが固く伝統を守り、「中屋姓」を彫っている。伝承によると、大阪天王寺前の中屋姓を名乗る鋸職人が差配権があり、日本海交易を通して、三条、会津、山形の職人たちが、中屋姓を名乗って鋸の伝統的技法を守って来ているのも鍛冶職人の特徴といえる。小柄な鋸であるが切り歯の部分に、むかしの木樵たちが「窓のこ」という形のもので「のこくず」が早く出せるようにした「窓のこ」の形を利用した。他の地域に見られない切れ味の良い鋸が人気を呼んでいるという。
●鍛冶職人の道具などが展示され、郷土の歴史を学ぶ三小
鍛冶町の職人は大正6年には山形鍛冶組合を組織した。戦後は昭和22年打刃物工業組合に発展、鎌・剪定鋏・鍬・厚物の四部会で構成され、会員は68人であった。しかし、時代の激変によって組合員も少なくなった。
第三小学校に学区内の歴史民俗資料室があり、見学できるという話であった。ここには、鍛冶町の職人たちが使用した道具・生産品・鍛冶町の祭礼、古い町の姿などを知る生活資料・写真などが整理されて展示している。学校教育が地域社会との関係、郷土学習に利用されていることは喜ばしい。
相生町になるが、浄土宗往生山浄光寺が鍛冶町通りに門前が継がっている。最上義光公は慶長六年ころに、城下に九つの浄土宗の寺を建立、その一つになる。
山形城主秋元公(1767〜1842)の時、鍛冶師庄司家に天明2年(1782)生れた直胤は、幼い時から刃物作りを体得し、25歳の時に江戸に出、南陽生れの刀匠水心子正秀(秋元家お抱え刀匠)の弟子となる。高松藩の松平公より所望されて太刀を献じた処、金百両を賞金として頂戴したという。山形市内にも「荘司美濃兵介藤原直胤」と刻まれた銘刀があり、二品とも昭和38年県の文化財になっている。また、刻名には「出羽住人大慶荘司直胤」とか「出羽霞城荘司直胤」などもあるので、山形鍛冶の良さを理解し伝統を受け継ぎ新しい技術を高めて欲しい。
北部公民館は円応寺近くにあり、昭和49年より、山形市産業部を中心にして、山形市伝統的工芸産業技術功労者褒賞を行っている。現在まで約125名が賞を受賞して、作品は北部公民館に展示し誰でも自由に見学できる。参考まで製品と氏名を上げると、
打刃物 粕谷幸次郎
鋸 小野房太郎 渋谷太郎 佐藤卯太郎
鍛冶物 結城宏一
剪定鋏 衡田庄太郎
包 丁 藤沢昭一
などが展示され、他県の好事家から好評であるが、展示室が狭く山形市の商工伝統工芸館の設立と発展を期待したいものである。
≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫