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銅町

≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫

鋳物のまち、梵鐘から茶釜まで
工芸品として高い評価受ける

●日本民藝協会編集の「手仕事の日本」で紹介された銅町

 昭和15年に日本民藝協会初代会長柳宗悦が、各地の民芸品の調査を行った。その時に編集された「手仕事の日本」のなかに(74頁)次の文が記されている。
=山形市で是非訪れなければならないのは銅町であります。よい家並が今も揃っております。道路をはさんで両側は殆どすべて銅器(鋳物)の店であります。店の裏にはすぐ仕事場が続きます。概して置物類は面白くありませんが、火鉢・湯釜・仏器などの実用品に見るべきものがあります。中でも男釜(直江釜)女釜(鉄瓶)などと呼ぶ立派な形のものがありますが、端広と呼ぶ鉄瓶が一番特色を示しているでありましょう。胴の下端が拡がっている形なので「端広」と呼んだのではないでしょうか。把手も太く握りよく、珍しい形で他の地方では見られません。また、吉原五徳や灰ならしなどの美しいものを真ちゅうで作ります。音の良い風鈴も客から好まれます。職人たちの作った色々なものを探しますともっと見られると思います。山形の町には銅町の隣に鍛冶屋も多く、鉄製の良い自在鉤を作ったり、箪笥の飾り具なども見かけるでしょう。=(一部現代文に修正)
 柳宗悦氏は民芸品を各国、各県より発見し、職人たちの手技を調査、伝統的な手仕事の良さを訴えた。つまり、銅町職人の手仕事を激励し、地元の人びとに、生活に密着した生産品の用と美を教えてくれた。
 昭和13年頃は鋳物業は40戸、従業員は約800人が働いていた。然も銅町だけで年間35万の利益を誇っていた。国の戦時体制が強化されるようになると、伝統的な産業に圧力をかけ始めた。つまり、生産価格を政府が決定し、今までの市場価格を下廻るようにした。次に原材料の値段を上げ、使用量を制限した。昭和14年度は鉄瓶100個分の屑鉄配給という状態であった。このような過程のなかで、柳宗悦らが商工省に対して伝統工芸の技術保存を訴えている。


●金属回収、屑鉄配給―戦時体制で危機に直面した伝統工芸

 結果的には一戸の年間生産高は49個が認められた。菊地熊治・横倉嘉山らが銅町の伝統的技術を守ろうとして、市役所と話合ったが逆に金属回収に協力するようにといわれるだけだったという。太平洋戦争に入るころより五百川鉄工場などは軍需産業下に入らせられ飛行機部品を作り、原田製作所もプロペラ作りをするようになった。伝統的工芸品の技術が軍事物資の生産に役立つようになった。しかし、山形の銅町で作られた鋳物が無造作に積み上げられる社会(金属回収)を見ると、作った職人を忍んで胸がいたむ思いだったという。鋳物町にはこのような苦しい時代があり、戦前の名作品が少なくなったといわれている。終戦後は、鍋釜が不足してアルミ鋳物が大量に生産された。
 山形商工会議所で昭和初期に編集した「山形経済志料」によれば、銅町の起源は康平年間(1058〜1064)の源頼義が武器製造のために、京都より鋳物工が住みついたのが始まりと伝えられている。
 また、延文元年(1356)山形に入部した斯波兼頼公が城を築くため谷地から9名のイモジ師を招いたという。
 最も史料性のあるものは、義光公が慶長11年(1606)、京都、会津、越前あたりから招き、羽州街道沿いの城北側に定住させたと記されているのが銅治(どうや)町の始まりといえよう。当時鋳物治(いもじ)は17名が定住するようになった。
(伝承)兼頼公時代から工人(9名)小野田平左エ門 渡辺久左エ門 峰田太右エ門 太田弥兵エ 長谷川甚六 庄司清吉 長谷川惣五郎 渡辺与右エ門 佐藤金十郎。
 義光公時代からの定住者(8名)角川八兵エ 庄司右エ門 岩田久兵エ 太田惣兵エ 菊地喜兵治 須貝与治兵エ 太田伝四郎他1名などの先祖が研究家によって明らかにされている。
 江戸末期には、鍛冶師を含めると60戸となって仏具が多く売れた。


●人間国宝の高橋敬典、若手も日展などに入選相次ぐ

 山形市の都市改造計画は立谷川工業団地への移設から本格的に始まった。昭和49年10月には、銅町の中期模鋳物工業は須川西部の工業団地に移動した。往古を語る銅町の区域も宮町や円応寺町と改名され馬見ヶ崎川の落合橋周辺に銅町一〜二丁目があり、小さな町で銅町の代表的なキューポラも旧羽州街道のシンボル塔になってしまった。一つの都市改造は伝統的な町の形態まで失われて行く。都市改造プロセスのなかで歴史的・自然環境保護の対策を充分に討議され、地域の文化財として保存されることを希望したい。
 銅町の一部に高橋・菊地・横倉の鋳物師の家並が残っている。小さなショウウインドーに工芸品が美しく展示され、VTRの準備もあったり茶室風の店も見られる。
 山形の鋳物師の人間国宝高橋敬典(山正鋳造の社長=西部工業団地にある)は茶釜の手技が認められた師匠である。戦後、当時の人間国宝故長野垤志(てつし)が山形で生活するようになって、山形鋳物師を指導した。デザインとひらめきに秀でた長野より教示を受け、昭和26年の日展に初入選。現在では10名以上の鋳金師が日展に入選するようになり、山形の鋳物の伝統技術は国の指定を受け、吾妻兼治郎など国際的に評価される状況である。(吾妻作品は市役所前に展示されている)
 鋳物は決して高いものではない。一つの茶釜で多くの友人を作り、山形を語り合えて交流を楽しめる値段である。

≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫