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緑町一〜三丁目

≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫

師範学校など教育施設が建ち並ぶ
山形の近代史を見つめてきたまち

●新しい農業の普及に燃えて、その息吹を伝える千歳園の碑

 今回は埋立の街を歩いて見た。やはり、この地名も古語となっており、山形県地名事典には記録されていなかった。旧六日町は新築西通り、その東にある町が埋立で、高級住宅と官舎の多い所だった。
 明治9年(1876)山形県が統一されて、同年8月21日初代県令三島通庸が赴任した。当時の山形は古い城下町のすがたそのものであり、県庁は新御殿(現在の殖産銀行本店のところ)を利用した。三島県令は、新山形県庁街を万日河原(今の文翔館)周辺につくった。当時の山形城下に南村山郡役所(今の市役所あたり)があり、米沢、鶴岡よりも人口が少なかった。文翔館前にあたる東西の道路は、山形扇状地をつくった馬見ヶ崎川の旧河川跡で、住民は殆ど住んでいない地域に、官庁街と南山学校(今の第一小学校)・師範学校を併設したので、イサべラ・バードから西洋の建物のようだと賞賛された。この時代、明治初期の洋画家橋由一を三島県令が招いて描かれた絵が、文翔館に展示されている。
 当時の緑町には民家らしいものがなく、県庁東側には製糸工場をつくったり、荒地六万坪に四木三草及び和洋種の果樹園をつくり、新農業の振興につとめるため、「千歳園」と命名した。中央には池をつくり、町民の公園を設けたり、三島神社(静岡県に本社あり)を建てている。千歳園は山形の新しい公園であり、新時代にあこがれる若き人びとの憩いの場として賑わったという。大きさは東西200間(360b)南北300間(540b)、旧県庁から三島神社前・教育資料館まで、南北は新築西通り(植木市の開かれる街道)の範囲であった。
 石碑は山形東高正面のロータリーに残されているが、旧山形中学のシンボルであったことを教えてくれる人は少なくなった。千歳園の南側は、むかしの河川底であったので、礫を積んで高くして開墾し、馬見ヶ崎川から水を取りいれて灌漑用に利用したり、池をつくり噴水までつくられた。(遊学館内の庭園あたりで旧知事公舎に活用されていた)。また、産業の近代化を目指すために、県の勧業試験場を北東側に設けて、山形で見られない果樹・疎菜を栽培した。なかでも、横浜でアメリカから輸入したサクランボを三島県令が千歳園と霞城公園東の桜小路に植えたという。しかし、政府は方針を変え、桜桃は函館(寒冷のため失敗)から東根に変更させて、今日のサクランボ王国をつくり上げた。三島県令による山形の近代化は、新政府の圧力を背景として推められたが、山形城下の商人たちの提供した資金によって発展した。参考までに、明治期の県庁建設の費用は、約21,000円で、長谷川吉郎治他875人の民間寄付金は1万円で約半分を占め、山形の近代化の基盤は商工農の資本家で築いたといえよう。


●明治天皇がご訪問、師範学校は貴重な教育資料館として

 明治帝の東北御巡幸は明治14年9月29日に山形に到着した。華やかな洋風の県庁街には郡役所、山形共立勧業博物館、同11年10月1日に開校された山形県師範学校、附属小学校や南山学校があった。御巡幸の際、山形県民が教育に情熱をかけている師範学校を訪問し、化学実験で教師が失敗して白煙をあげてしまった。しかし明治帝は叱らず微笑しただけであったと記録されている。(山大教育学部90年誌による)。明治22年には女子部を設置したり、同17年には山形中学校もでき、博物館を校舎として利用した。師範学校は県庁と同じように三層楼であった。
 明治23年8月、県庁前の東西道路が大洪水となり、県庁前の建物に大きな不安を与えた。同30年前後には師範学校の移転が話合われ、同34年に馬畔の土地に移転し、附属小学校も同時に落成した。山形県庁の東方の馬見ヶ崎川西部を「馬畔」と呼ぶのが流行した。師範学校は山形県内の小学校の先生を送り出すためで校舎新築は4年間かかり、同41年に東宮殿下を迎えることができた。同44年5月の山形大火でも防火建築のため延焼せず、現在は教育資料館と改められ、国の重要文化財に指定され、県民の学習風景及び歴史的な教科書が展示されている。


●埋め立ててできた緑町二丁目は、閑静な住宅街として発展

 山形中学は、師範学校の附属校であったが 明治23年栂野校長(第六代)の時代に千歳園を利用して建てられ、日下部四郎太・三浦新七・小磯国昭・結城豊太郎など俊英の先輩が育成された。
 山形中学の北に山形県立山形工業学校が大正9年(1920)に創立した。教育方針は豊かな教養をもち、県内外の工業界の発展の推進力となる工業技術者の育成を目指した。県内の中堅工業の経営者らが多く卒業していった。緑町一丁目、二丁目は、教育施設だけでなく、公務員、大学などに勤める人の官公舎も多く見られた。昭和になると県職員自治講習所、警察学校なども出来、戦後は米軍の宿舎として活用された。
 明治22年に山形城下町は県都として市制が執行され、街の商工業、教育施設の発展が見られた。大正13年には左沢線ができ、西村山郡から多くの人びとが移住するようになった。大正3年ころから馬見ヶ崎川の洪水を防止するため、小白川天神裏からお薬師さんに東に至る川底を掘り、二重の堤防になっていた間を埋める工事を行った。その工事費が10万円であったという。大正5年までかかって、護国神社前に参道をつくったのが「埋立」の地名となった。この記念碑は馬見ヶ崎川沿いの護国神社内に見ることができる。馬見ヶ崎川の上流も改修し、上流の400_以上の豪雨にも耐えられるようになった。大正の初めに山形市の人口は7万人を越したが、松原の浄水場により水道も心配なくなった。昭和6年には小白川村も山形に合併して人口も8万と増加し、新しい町づくりが市議会で審議されて「東原町・埋立」地区の住宅が造成されるようになった。大正5年に植えた桜並木も大きくなって、静かな住宅街として誕生したのが緑町二丁目であった。河川敷公園も市民の協力で美化され、芋煮会大会場の場所に発展している。

≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫