山形観光情報専門サイト WEB山形十二花月


寺町

≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫

藩政時代からの歴史を語り継ぐ
今も旧町名で親しまれるまち

 昨年の暑い夕方であったが、山形の寺の多い街で、友人と30年ぶりで出合った。友人は墓詣りの帰り道、家族的な交際をした仲であったので、昔話を交わし故郷のなつかしさを味わった。
 盂蘭盆会には故郷に帰った幼馴染みと出合うことが多い。山形では「お盆」は月遅れの形で行われ、東北四大祭りの「花笠まつり」 で街が賑わった後、家族で先祖参りをする。
 しかし、友人と偶然出合った緑町三丁目=旧地名の寺町=は、山形市の地図に記載されていない。寺町という愛称で親しまれている町名は、緑町三丁目にある大伽藍の専称寺を主とした浄土真宗派の「寺内町」から生れたものであった。専称寺を中心に同宗派の寺は南側に八ヵ寺、東に3ヵ寺の他2ヵ寺で計13ヵ寺が見られる。つまり、緑町三丁目と西の七日町四丁目と三丁目、東原町一丁目の一部にある寺を含めて「寺町」という愛称で親しまれている町で、数多くの先祖が残してくれた歴史が刻まれている。古寺を中心に街・市民との関係を紹介してみたい。


●専称寺、長源寺、法祥寺…寺の歴史は山形の歴史そのもの

 水野三郎右衞門元宣は若冠27歳で奥羽列藩同盟に参加し、後に官軍と和睦したが、明治2年5月政府より、「刎首の刑」に処せられた。明治3年7月に近江国(滋賀県)朝日山藩にいた水野忠弘が山形県令となり、藩士も市内に残った。
 長源寺は、元和8年(1622)、最上家改易(近江国朝日山藩)後、最上義光公の菩提寺であった光禅寺跡に建立された寺である。元和8年という年は、最上家相続問題と家臣団の不和から幕府によって転封が命ぜられ、岩城国(福島県いわき市)より鳥居忠政公が入部した年である。鳥居公は山形城下の馬見ヶ崎川の洪水を防ぐために河川工事を行っているが、自分の菩提寺を山形に移し、七日町三丁目の長源寺を建てた。この寺には、水野元宣公の他、堀田伊豆守正虎(千葉県佐倉)の長男墓碑もある。
 山形市の映画館街の東側にある曹洞宗法祥寺(開山応永2年(1395))は最上家四代満家公が父のために建てた寺で、遠州流の古樹庭石が涼風を運んでくれる美しい庭園がある。
 東原町一丁目の真言宗智山派地蔵院は七日町五郵便局の前にあり、町名が複雑である。この寺前を南北に走る道は地蔵町と呼ばれており、城下の東はずれの所に永享3年(1531)頼宗公が建てた。山形でも4月24日、桜花の下で地蔵さんの祭りも開かれる。地蔵院は貞観8年(866)の寺を移しており、この寺の前を馬に乗った忠政公は、宝塔の光があたって落馬するという伝説も楽しいものである。この寺の近くに二つの醤油工場があり、幕末における仙台道の出口を人びとと守りながら、地蔵さんの祭りに協力している。
 寺内町に近い浄土宗来迎寺は天正8年(1580)に建てられた寺で、良全上人は極楽寺を建てた後に創建させた寺といわれている。最近立派な鐘楼を建てている。山形の寺大工の技・伝統的に釘を使わずにつくられたものを見て、山形の建築技法の誇りを感ずる。


●三叉路、小路、鍵型道が多く城下町の道づくりの特徴残す

 緑町三丁目は殆ど寺院で埋められている感じで、静寂な佇まいの中を歩くのが大好きである。古い最上時代の城下絵図を見ると、城下の鬼門にあたる東北に霊魂を集め、城下の守り役にするという形に見えるが、それぞれの寺院の創建・移築・再建などの年代を調べると同年代に建立されたものが少ないことがわかる。(県寺院年鑑)
 東北最大の寺院で義光公の愛娘駒姫を弔うために造られた浄土真宗専称寺は三回移築されている。また、市内の浄土真宗大谷派の寺院27ヵ寺のうち、17ヵ寺が東北に位置するように建てられているのも不思議である。
 春の寺内町は寺の築地塀のなかより桜花が咲き乱れ、夏は赤い提灯をさげて祖霊迎えをする老若男女の行き交う姿、秋は大木の銀杏の黄ばむ色、冬に多い悲しい葬列、四季折り折りの節目を伝えてくれる寺町の道は、市民に安らぎを与えてくれる。町のど真中に寺院街があるのは、山形市だけかも知れない。然も、寺町の道は幅広い道、三叉路・小路・鍵型道(クランク)が多く、城下町の道づくりの特徴を残しており、貴重な文化遺跡ともいえよう。


●京都・三条河原で斬殺された義光の愛娘駒姫が静かに眠る


 日本的な年中行事で「お盆」は血縁集団社会(家族・親族)の祭礼である。七日は墓掃除、13日は墓参り、16日は祖霊を送るために地域の盆踊りの行事がある。帰郷した友人、親族と語り合える時でもあるので大事にしてゆきたい。
 地域の歴史と文化を知るために専称寺を中心とした寺町を探ってみたい。
 日本の歴史から紐解くと、安土桃山時代で秀吉と義弟秀次の世襲問題があった。秀吉に秀頼という子が生れ、後継者であった秀次が切腹、侍妾30余名が京都の三条河原で斬殺された。侍妾というと「おめかけ」という例があるが、当時の女性は政争の道具に利用された。斬殺された侍妾の中に、義光公の愛姫「駒姫」がいた。時は文禄4年(1595)7月15日で、切腹した秀次をさらし首にして、侍妾の死体で塚をつくり、その上に秀次の首をさらしたという。(京都の瑞泉寺に供養されている)
 義光公にとって、一人娘、15歳の駒姫(現在ならば中学三年生)の悲劇が父に与えた心痛は最大のもので、浄土真宗本願寺八代連如上人の高弟願正坊を招いて専称寺を城下に建立し、姫の遺髪を納めて菩提寺とした。東北一の大きな寺、義光公の悲憤は最大のもので、妻と駒姫の寺と定めた武将の心にうたれるものがある。
 現在の寺は元禄年間に再建されたものであるが、梵鐘には慶長11年の記年号があり、県文化財に指定されている。山門を入れると大イチョウは山形市の天然記念物に指定され「雪降りイチョウ」(大イチョウの葉が全部落葉すると根雪となるといわれている)の愛称で市民から親しまれている。その他、石碑、力士の彫刻などが数多くあり山形市の文化史を調べるのに重要な名刹寺といえよう。

≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫