相生町錦町・肴町
≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫
かつては交通の要衝で商人の町
両側には旧家、マンションが
●以前は寒河江町、小橋町などと。郷愁を覚えるひとも多い
往古、陸奥国からは笹谷峠を越して山形に泊り、三山詣りや庄内に出かけた。山形城下町ができると各町人町も生れて、中心の旅篭町は六十里越えをした行者や羽州街道を通行する大名行列の宿場町で、北の大橋(山新の北あたり)娯楽街で賑わったという。 元高陽堂書店から西に向う道が「寒河江道」といわれ、 寒河江町という名で親しまれていた。 この道は笹谷街道だけでなく、高瀬地区東部の二口峠の道からも行者や商人たちによって利用されていた。
市内で「小橋から来たんだ」と聞くことがあるが、今は錦町となっているので老人たちにとって郷愁を感ずる町名である。小橋町は寒河江道の中心であるが、元和年間ごろは見られず、元禄ごろになって、六日町と旅篭町の間にある大橋の西方に小橋がある。三の丸堀と宮町や銅町が結ばれる橋の名前から小橋町となったと伝えられている。元禄10年(1697)の山形故実録によれば、東に百姓町、西は肴町、南には馬見ヶ崎川が流れていた。屋敷57軒、人数327となっている。嘉永2年(1849)頃に屋敷75軒、人数316と人口が減ったのは、北肴町が生れて人数がわけられたからと考えられる。北肴町は北の皆川町からも分割されて戸数は131、人口は633人となった。明治9年(1876) には山形県が統一されて山形が県都となり、北肴町の基盤をつくった。
小橋町の場合は東の百姓町やエタカ町・一ト町(いちぼくまち)を含むようになったのは元禄ごろで、義光公時代は城外の町は小さく区分されていた。百姓町は領内の米を納める役を持っており、馬見ヶ崎川の北部に田畑を管理していた。一ト町は第四小学校北側を南北に走っている通りで伯楽一ト斎という人の屋敷から「一ト町」と言われるようになった。伯楽とはバクロウと呼んで見ると、馬を見わけるのが上手な人という意味がある。城下の馬場に近く、交通の要所である旅篭町や寒河江街道など運送、伝馬業に従事するために良馬を提供していた。
旅篭町は参勤交替の本陣・脇本陣があり、幕末には八日町と行者宿(三山詣り宿)の奪い合いをやった記録がある。その隣町となる小橋町にも多くの商人が住むようになった。小橋町や肴町などは市日町でなかったが、木賃宿、料理茶屋、五十集屋(いさばや)、仕立屋、大工、古道具屋、雑貨店や一銭店(小間物屋)、医者などの職業を持つ人も住み着くようになった。つまり、大消費地である旅篭町と隣合せの町、交通の要所を占める商人町に小橋町が変っていったのが江戸時代中期ごろと考えられる。
また、現在は錦町となっている旧歩町は徒歩(かち)町と言われたが、鍛冶町と同呼称となるので歩町となり、幕末に転封した水野藩が和傘作りを手内職としてすすめた。昭和30年頃には15軒ほど見られたが殆ど転職し、山形県内では東原町一丁目の古内和傘店のみになってしまった。山形市の歴史を語る商人町が減って行くのが淋しい気がする。
●錦町のオシメ様で親しまれる神明神社。北の守護神として
地名の変遷は、昭和30年から昭和40年にかけて、現在の地名、相生町や錦町が誕生した。市内の区画整理、学区などの整理から生じた訳で、その中には大山形市の発展を願う行政上の課題があった。錦町の北部に不動明王を祀った寺があり、八日町の賑わいを浮世絵にした広重から、霞峰先生と讃えられた絵師が住んでいた修験宗の寺院も見られた。錦町の北に東西の道に沿った肴町は北肴町とも言われたが、最上川舟運による魚市場や五十集屋が多く、川嶋屋などは江戸初期から有名な魚屋であった。
小橋町の矢野家も干魚や生物を取り扱う豪商であり、現在でも活躍している。薬局として有名な工藤家も最上川舟運を利用し、薬師としての知識豊かな家系を引き継いでいる。これらの商人たちが、商売繁盛・家内安全の祈願をしたのは神明神社である。
錦町のオシメ様の愛称で信仰深い神社は、延文3年(1358)斯波兼頼公の創建と伝えられている。当時、兼頼公は円応寺の西に居住していたが、この神社は真言宗平照山神立寺という名称が見られる古い寺社で、別に宝蔵院という修験派であり、天照皇太神を勧請して神明神社を建立したと考えられる。兼頼公が山形城をつくった時に北の守護神と定められ、民衆の信仰も厚い。また、江戸期になってから鳥居・保科・松平・堀田公などの領主も崇敬したという記録も見られる。幕末には秋元公が玉垣をつくり、水野公は毎年祭礼の時に金品を奉納していた。
この神社の拝殿には、明治22年(1889)小橋町工藤左衛門らが奉納した「薄荷栽培製法」の絵馬が奉納されている。明治12年頃には西洋の化学染料に押されて、出羽特産の紅花の需要が激減した。その結果、農民に普及したのが薄荷栽培である。
江戸期の山形の大火事も有名であるが、町民の間に「巽たつみの資本は乾いぬいの資本を大きくする」という話がある。三日町、十日町の資本は北西の四日町、小橋町などに移ったのが明治の近代化で、山形商業のリーダー役が増大したのも理解されるような気がして神明さんを拝んできた。
●豪商の宏大な屋敷が今も残り、しのばれる古い歴史と誇り
神明さんの前には曹洞宗高雲山松岩寺がある。この町の街道は約600b位まで二車線であるが、錦町に入ると古い道幅となる。この寺は竜門寺末寺であるが、最上家六代義秋公の菩提所となっている。義秋公は山形・中野地区を支配していたが、文明12年(1408)に没した。当時の寺は現在の七日町五丁目あたりにあり、幕末の和エ門火事(北部大火)で焼失した。山門をくぐると右側に観音堂があり、参拝も気軽に出来、三十三観音巡礼の美しい押絵絵馬なども見ることができる。
街道には山形商工会議所前会頭工藤宅、山形水産の歴史を背負った矢野宅などもある。多くのマンションで景観が変化している狭い街道を西に向うと老舗秋葉駄菓子屋で昔を偲び、町の推移がわかる町人町の性格をもっている。
≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫