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六日町

≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫

羽州街道沿い、県庁ができて発展
明治、大正ロマンの薫りが残る

●春と秋、「六夜まつり」で賑わった―だから六日町とも

 久しぶりに山形中央の町かど探訪を考えて、いろいろな資料、歴史的な記録を調べて、六日町の主な道を散策してみた。旧13号の大通りは、車の流れが激しく、人の歩く道は狭く、自動車道も細い状態であった。
 六日町の一部は俗称百姓町ともいわれていた。義光公の毎年10月18日を命日としている光禅寺も南に移ったので、名ばかりの市日町であった。 最上家転封後に入部した鳥居忠政公は、城下の中心を流れていた馬見ヶ崎川の流域を鈴川村南西部に変えて城下町の洪水を防いだと言われている。つまり、鳥居公の時代になって初めて市日の性格を発揮できるようになり、呉服屋・薬屋・問屋・商店などが街道に発展した。
 六日町通りの反対側に愛染明王の祀られている所がある。この所に日本の歴史を揺るがすような事件(慶安の変)の伝承がある。慶安4年(1651)駿河の国生れの兵学者由井正雪と出羽の国生れの宝蔵流槍の名人丸橋忠弥らが企てた幕府への反乱事件が発覚した。忠弥は故郷である山形城に戻り、真言宗の修験僧のもとに隠れて住んだと伝えられている。その後、江戸に行き、忠弥は道場を開いていたが捕らえられて江戸で磔刑で亡くなった。山形では、忠弥の住んだ周辺の人びとが変死することが増えたので、不吉なことと思い愛染明王を祀って安全・繁栄を願った。現在は秘仏となっているが、以前は5月・9月の26日の徹夜まつりが開かれ賑やかであったという。愛染明王の祭日は26夜であり、山形で「六夜まつり」といって楽しんだ。六夜まつりが六日町となったとも伝えられている。愛染明王は頭に獅子頭・顔は憤怒面でおそろしい御顔をしている。人びとの愛慾と貪欲を浄化し、愛染から生れる男女間の悩みを救うと信じられ、若い男女の参拝が多かった。
 六日町は広く、緑町や相生町も六日町に入っていたが、旅篭町隣にあったので傾城町(芸者街)、地唄の太夫、猿廻しなども住んでおり、羽州街道沿いで賑やかな町であった。明治14年新県庁が建立、芸者は小姓町へ移されて、置屋は管理強化された。


●国内平穏を願い、紀州熊野権現を勧請、雨乞いなども

 この通りには、仕立屋、 畳屋、石屋など意外に多くの伝統職人さんが多い所である。この道筋に「鴻ノ池」という井戸があったが、昭和30年頃までは冷たく美味しい水といわれ、学生時代に喉をうるおした。今は史跡のみであるが、鎌倉時代、宝沢の炭焼き藤太(別説では金売吉次ともいわれる)が、美しい池にコウノトリがいたので黄金を投げ入れたと伝えられ、美しいコウノトリが舞いおりる池として、人びとから親しまれるようになったという。(山形東高伝説集より参照)この近くには山形市六の宮の一つ熊野神社、浄土宗の極楽寺や天然寺がある。
 慶長5年(1600)大坂方と徳川家康の天下分け目の戦いが関ヶ原で行われた。山形城主義光公は徳川方、上杉藩は豊臣方となったが、出羽の領国争いが定まらず、両軍とも関ヶ原に参加できず、畑谷長谷堂合戦で戦うようになった。戦いは最上藩がやや不利であったが、米沢の直江山城軍が「徳川勝利」の情報を知るや、速やかに引き上げてしまった。この戦いで敵の武将2名の首を討ち取った最上藩では城の東北にあたる地を選んで首塚をつくった。その後、最上家相続争いが生れたので、義俊公の時代で元和7年(1671)6月に、城内の熊野神社を移動させたのが熊野神社の始まりである。
 熊野権現は、念仏宗教(時宗・浄土宗・一向宗など) と関係深く、行蔵院道学法印(六椹八幡社人)に延文元年(1356)兼頼公が国内平穏を願って、紀州熊野大権現を城内に勧請したのが始まりであった。行蔵院の法印は国家安康・豊作・雨乞いなどの祈りを行ったので、庶民に最も関係の深い雨乞い祈願の石の水鉢を北肴町衆が奉納しているのも面白い。西側の六日町通りの稲田屋商店の裏に行蔵院法印の三つの墓がありその一つに、
 =ながき世と思うは娑婆の人心
   今日ひぐらしを待たぬ朝顔=
    文化元年6月入寂
     48歳
 人生の悟り・経済の動きを意味する歌として印象深いものである。


●口元にあんこもち、亡くなった子どもを見守る小豆地蔵

 この寺の門前に、高さ一丈位の地蔵さんがある。万日河原(旧馬見ヶ崎川)の側で幾度か流されたこともあったという。寺では正徳2年(1712)の建立といわれているが定かでない。前の水鉢石には天明6年(1887)6月の記年号があり、そのころから庶民信仰が盛んになったと思われる。地蔵尊像は、亡者に慈悲を与え、幼くして亡くなった子を見守る地蔵尊菩薩像であるが、口元がやや赤く染まっている。極楽寺には後藤小平次、松平大和守の御殿医、者の市川小団次の墓などがある有名な寺である。医者は甘酒が好きだったので甘酒を供えると眼病が治ると信じられていた。このことが地蔵尊信仰にも影響して、小豆、アンコ、赤飯を供えるだけでなく、口元にも食べさせるようになったらしい。
 年代的に考えれば、天明のキキン、餓死の子どもを守る地蔵尊の信仰が深まったのも当然と言えよう。尚、極楽寺は文禄2年(1592)良全和尚によって建立された。
 同じ浄土宗の天然寺は熊野神社の西側にある。慶長6年(1601)良全上人が開基、名越派の寺として有名。山形城主堀田相模守正亮の姫が葬られたので、東西に走る薬師通り南側の土地が寺に寄進された。(古文書元文四年記録)。
 この寺には、江戸時代の文人画人たちの墓があり、活躍した人びとの話を聞くのも楽しいものである。秋元久朝公の御殿医で文筆のたつ萩原赤城、長沢理玄らとともに活躍した小林玄丹などの墓碑を拝んでから医学部を目指すのも当世の学生に影響をあたえるであろう。小林風五も江戸末期に活躍した俳人、35歳という若さで亡くなった画家小林秋谷の墓碑も拝することができる楽しみがある。
 六日町は、明治10年の頃で戸数が117戸、人口647であったが、南に県庁(現代の文翔館)ができ官庁の支所や官舎などで発展した町である。 西側の大通りは大幅に広げる計画があるが、 明治、 大正ロマンの残る商店家屋は残して欲しい。

≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫