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旅篭町

≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫

行政、商業、文化の中心地として
本県近代化の基礎を築く

 明治維新の時、山形城下の焼き打ち防衛を行った水野三郎右衛門が、長源寺内で斬罪された。若干27歳の青年が山形城下を救うために犠牲になって130年、平成12年4月、桜花咲き乱れる霞城公園大手門で、水野家の子孫を招いて記念式典が行われた。


●その名の通り旅篭屋がずらり、全国各地の情報も集まって

 現在、義光歴史館の所に三郎右衛門屋敷があり、後に山形刑務所となって、正門の所に古松の大木が煉瓦塀の上から見えていたのが水野家老宅の門松であった。
 三郎右衛門元宣は、5月20日、官軍の命令によって唐丸篭に乗せられ旅篭町一〜二丁目を通り、長源寺まで運ばれ、別れを惜しむ旅篭町の人びとは、店を閉じて手を合せて拝涙したという。山形城下の焼き打ちを防ぎ、山形近代化の夜明けはこのようにして開かれた。(山形市史下巻近代編を参照)
 最上義光公が山形城下町をつくってから「商人・旅人は旅籠町を主な宿泊地となし…」とあるから「ハタゴ業」をする業者がいる町であったことから始まる。山形銀行本店あたりには、大名の泊る本陣宿があり、脇本陣となっていた宿は後藤小平治であった。弘前の津軽藩は後藤屋を本陣としていたので、各藩主が参勤交替で泊する宿屋を定めていたようである。旅篭町には、江戸期の記録によると、小清水庄蔵本陣を中心として賀川屋、佐久間屋、藤屋、松沢屋、越後屋、柴田屋などの旅篭屋があった。北に向う通りには、吉田商店とか渡辺商店、松前屋という商人などが常に新しい商品を受け入れて販売する町人がいたが、紅花商人という豪商も少なく本来の商人気質を持っていたといわれている。例えば明治以前にあった「松前屋」は北海道の松前に「山形屋」という店を設けており、北海道の海産物(昆布、鮭など)を山形城下まで移入し、山形からは、古着、太物、米などを北海道に運び、その利益で松前藩の城門造りに協力している。二地域間の流通に対して、その地に商店を建設するプロジェクトは現在の流通機構にも共通すると思われる。旅篭町には、茶店、薬屋も多かった。お茶売りは、京山城・宇治からも仕入れていたが、茶の実を仕入れて高瀬村あたりで栽培させており、地元の茶を安く仕入れる商売方法を心得ていたのかも知れない。旅篭町のなかに、越前屋といわれた千歳角上印の醤油屋、佐治吉左衛門がいた。タマリ作りは明暦2年(1656)から大正ころまで続けられた老舗(しにせ)であった。タマリの品質は高く、販路は村山一円から置賜に至るまで拡げられていた。醤油だけでなく、絞り粕や醸造した製品で「やたら漬」を生産して、明治期の物産共進会に出品して優勝したという。近くには稲田屋、高陽堂書店などがあり、山形の食文化を築いたと思う。


●最新技術を学んだ菊池新学、奥羽で最初の写真館を開く

 旅篭町は武士だけ泊る場所でなく、三山行者、 商人も泊り、他国の情報文化を伝達する町であった。旅篭町に古い山口写真館があったことは老人程深い想い出として語ってくれている。山形市一流の写真師といわれた山口勇三郎は、天童の津山村生れ。若松寺僧であり奥羽で初めて写真館を開いた菊池新学の一番弟子である。菊池新学〔天保3年〜大正4年〕(1832〜1915)は天童・山元の新蔵坊菊池常右ェ門の長男として生れた。若松寺につかえる菊池家では醸造の仕事をしながら寺で修行する役僧であった。父常右ェ門は寺境争いの中に入って訴状を持って江戸に出かけ、黒船と出合ったりして写真術に興味を持ち、田舎に残っている新学のもとに写真術の薬品など明細に送ったという。新学は化学薬品を旅篭町の渡辺薬種問屋に求めた所、沃化銀やマグネシウムなどの新しい薬品を求める新学を認めて安い値段で売ってくれた。写真という新しい文化を援助してくれたのも旅篭町の商人であった。菊池新学が父のもとに上京したのは慶応3年(1867)、技術を学んで明治元年に、小清水本陣の門前を借りて写真を撮る写真館を開いた。山形県の夜明けを物語る山形県庁の油絵(高橋由一画)が現在文翔館に展示されているが、高橋由一画伯の絵は菊池新学の写真を利用して描いたものであることが明らかにされている。新学の写真40枚は山形郷土館に保存されている。やがて新学は小姓町に菊池写真館をつくり、多くの弟子を育てあげた中に、山口写真館の先祖がいた訳である。


●すぐれた西欧式の建築物、明治天皇からおほめのお言葉

 明治の戊辰戦争が終り、政府による幕藩体制の解体がなされ、明治9年8月21日に山形県が誕生した。それまでの間は小グループにわかれ、明治2年山形藩知事に任命されたのは藩主水野忠弘で、県庁は現在の殖産銀行本店のある山形城の新御殿が利用されていた。明治9年8月、県令として赴任した三島通庸は、新県庁つくりを命じ、馬見ヶ崎旧河川跡の雁島公園北側、通称「万日河原」といわれた所を中心に県庁及び裁判所、学校、山形町役場など建設させた。明治14年9月、明治天皇は山形県を御巡幸なされ、2泊3日ご滞在した町も珍しく、県庁通りの近代都市の建設を讃めて下さった。英国人のイザべラ・バート女史も天皇より早く訪れ、山形の西欧式建築を見て称讃し、英国へ記録を送っている。 明治29年には山形城跡に陸軍が誘致され、旅篭町の旅館には政府高官や文化人森外、有島武郎なども逗留して、行政面だけでなく、近代的な文明の足あとを残してくれた。
 やがて小鍄から七日町へつながる道も拡幅され、旅篭町新道と呼ばれて来るようになると、三島通庸が名付けた「三島床屋」、写真屋、映画館(無声)、和菓子屋などができて賑わう。十日町の道路改修で市神も元湯殿山神社に遷座し、初市の拡大が行われて旅篭町は山形の文化だけでなく商業を中心とした山形の都心部として発展した町である。

≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫