鉄砲町・寿町
≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫
国家的事業だった産業道路の建設
高校生たちの元気な声がひびく
●六小前の横断歩道橋わきに産業道路建設の記念碑が建つ
先に鉄砲町の歴史・史蹟などを紹介したが、八日町の旧羽州街道沿いを中心にまとめて見る。現在の鉄砲町や寿町などは、国道348号(仙台―山形―新潟)の自動車が溢れ、山形市内で最高の自動車通行の多い国道といわれている。また、十日町から、成沢西部を通って上山と結ぶ産業道路(旧国道13号―現在112号)の開発は、山形市の経済不況を救済する国家的な事業であり、戦後において鉄砲町二丁目に山形交通本社が設立され、山形市南部の開発に貢献していた。国道112号は昭和4年から10ヵ年計画で1億8,000万円の国費が投じられ、昭和10年に全線開通となった。
当時は山形市内の商工業が不況で、市内のある学校では弁当を持たぬ人が各学年15人位いたと記録され、大半が漬物をつめて麦飯弁当であった。市では、失業者の救済として、道路整備の砂利採集作業員として生活費を得られるようにしたといわれている。(市史近現代編による)
昭和10年前後の山形市の産業行政は殆ど道路建設・改修・市内道路の舗装工事を中心に進められた。昭和10年頃と現代を比べると、道路づくり、貸家(マンション・アパートを含む)が多いことと、就職難であること、中規模の事業主・商工業の倒産などが似ているが、社会情勢の大変革があって内容的には現代にゆとりがあるようだ。しかし、鉄砲町を含めた南部地区には、人々の集まる公共施設が少なく、北部地区に集中しているので、不満を持つ市民の声も聞こえてくる。
鉄砲町二丁目で112号に沿って第六小学校がある。この学校は昭和7年に建てられたがこの場所ではなかった。当時、東沢村小白川地区が山形市に合併され、小白川小学校が改築されて山形市立第六小学校となったと記録されている。(「はばたく」山形市立第六小学校50周年史による)しかし、現地の学校は、昭和9年に産業道路の整備に伴って、第七小学校として建設されていた。また、昭和15年になって、七小が移り、六小が鉄砲町に移動したのは昭和16年太平洋戦争の年であった。昭和10年前後は山形市は不況と貧乏の中にあり、16年から20年に至るまで戦時下で苦しんで来た。それだけでなく、終戦後はアメリカ軍から学校が接収されてしまった。子どもらは、小荷駄町の山形商業(現在、山形市立図書館)や寺を借りて勉強した。
昭和22年3月まで米軍に兵舎として利用された校舎は荒れ放題で、超モダンな校舎を取り戻すのに児童みずから汗を流して修復した。今から55年前の出来事で体験した人びとは70歳位になる。現在の第六小学校は平成に入って改築された。戦後のくらしの苦渋、教育環境の変化を背負ってきた周辺の人びとを「はばたけ少女像」(故長橋阿久於作)が見守り、側で無邪気にたわむれる子どもの成長を願っているようだ。
●農事試験場の跡地に官公庁、高校が建ち行政、文教地区に
鉄砲町二丁目は明治43年(1910)に移転した農事試験場があった。山形県の農業発展のため、蚕飼用の桑の改良・米の品種改良に取りくみ、その後、養蚕業の試験場は東原町に別離された。当時は水田170e、畑130eと大きく、全国でも早い方であった。特に稲作では陸羽132号、北陸11号の品種改良で実績をあげた。しかし、山形南部の開発と都市計画が発展するようになると、旧市内に3fの試験場を管理することが大変であった。昭和57年(1982)、西山形の村木沢地区に移転し、県内農業研究機関の主軸となって発展するようになった。その跡地を利用したのは山形県東南村山合同庁舎、県立山形中央高等学校など官公舎に活用され、広域行政の合理化を図っている。
山形中央高のあゆみも六小と同じように移転の繰り返しで大変であった。昭和21年に公民中学校として昼夜間学校から出発し、山形四小、旧山形第一中(現在、小白川町東部公民館)に移ったのが昭和25年(1950)山形県立山形中央高等学校と改名して霞城公園内の元兵舎(旧山形三中)に移転した。さらに、現在の松山一丁目、山形警察署のある所に移り、農事試験場跡地に移転したのが昭和58年以降のことであった。このような移転を繰り返した高校であるが、スポーツ関係の活躍は全国でも高い評価を得ている。「心身をきたえたくましい気力と行動に徹しよう」という教訓は、移転あるたびに向上してきたといえよう。
●仙台、山形、新潟を結ぶ重要路線の整備で県外車が急増
山形市の中で生活していると、どの地域でも車社会に悩まされている感じがする。
山形南部の112号は道路拡張工事が進んだので、日本有数の自動車ディーラー、ショーウィンドウが並んだ。しかし、鉄砲町三丁目の国道112号・348号の四叉路の自動車交叉が大変なラッシュにあう状況を生んだ。特に348号は新潟―山形―仙台の流通交通路のため、県外ナンバーの車が多く、山形市街は通過地点に過ぎないので、車社会に対する商店街の開発・改善の町づくりが欲しい。例えば、国道交叉点の駐車場づくり。休憩車のドライバーがゆっくり食事ができるマーケット店、出店などができれば、走行車も一休みして貰えると思う。
現在の鉄砲町・寿町の大通りは柳の街路樹も美しいが、人通りが少ないのが、旧市街通りに共通している。鉄砲町三丁目には、江戸時代より続く山形の銘菓「のし梅本舗」、山形市の生んだ和算学者会田算左ェ門とゆかりのある薬局、豆・ピーナッツ製菓工場などの商工業があり楽しい散歩コースといえる。新店舗としては山形ゼロックス・ビール園(平成14年廃止となる)など若者で賑わう所であるが、昼食もとれるので意外性のある穴場と思われていた。
現在では、周辺部が立派な住宅地となり、隣地には児童公園があり、山形中央高のスポーツ選手たちの声が聞こえてくる所で、以前のものと大きく変化している。この地域は副行政地区のある街で、発展する21世紀の街になることを願いたい。
≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫