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鉄砲町

≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫

泉州の火縄銃職人を住まわせる
県の合同庁舎など新しい姿も

●六つの苦しみを抜いてくれる(六苦抜ぎ)から六椹八幡宮

 山形城を偲ぶ「三の丸」堀は山形駅前通りの歌懸稲荷神社の西に残っており、また、五日町には南の出口「吹張口」跡がある。山形城下の南側には、往時を物語る商人・旅篭で賑わった八日町がある。義光公は城下町をつくるために、南の出口にあたり、町人の町まで含めて守りを固めることを考えて鉄砲鍛冶町を設けた。(古い記録には御役人衆と記されている)
 現在の鉄砲町は東の方から一〜三丁目と区分されているが、城下絵図では、東・中・西鉄砲町とわけられていた。中鉄砲町には六椹八幡が建立されていたが、町名改正に伴って、建物が八日町で鳥居門前が鉄砲町二丁目となる。八幡神社は一般に南を向いて建てられているので、鉄砲町の守護神であったかも知れない。山形城下は、北に両所宮、東に寺町を配置し、主な街道の出入口に社寺を建て守護神とした中世武将義光公のすがたが伝わってくる感じかする。
 9月15日は八幡神社の大例祭、稲刈前の村人(今は町人)が、古い六角型の神輿をかついで町内を廻る。15日は流鏑馬(やぶさめ)が行われていたが奉納弓道大会に変った。戦前の楽しいまつりとして、古木のケヤキの所で栗のイガ売りが行われていた。一つのイガを買って、何個の栗が入っているか楽しんでいた。男の子らが高足駄を履いてイガ栗を下駄の歯にはさんで失敬するものもいたが文句も言わなかったと話してくれた老人もいた。境内を舞うハトは参拝客に対して親しげに集まり、手に止まってエサを食べる。親子でハトと戯れているすがたに安らぎを覚える。
 八幡神社の創建には、天平年間(729〜748)陸奥鎮守府将軍大野東人という説や源頼義が出羽、陸奥を平定するために、康平年間(1058〜1064)に必勝祈願のため勧請したといわれたりする。
 江戸時代の明和8年(1771)、「六椹八幡宮伝記」によると、この地に来た源頼義は苦労しており、夢枕に「近くの土地に六本のクヌギが繁っている聖地があり、八幡神をまつると良い」と告げられたという。頼義は「六つの苦を抜いてくれる」(六苦抜ぎ)の話を聞いて勝つことができたという。
 八幡神社には41本の老大木のケヤキがあり、クヌギの大木は見られない。他に、アベマキ、エゾエノキ、トチノキがあるが、ケヤキの大木が夏の日ざしを防いでくれる。六苦抜ぎは「陸奥の苦しみを抜いてくれる」と考えたという伝説は楽しさを与えてくれる。六という数字は「六地蔵」「六観音」という宗教的な意義も感じられる。


●海上安全、家門繁栄を願う大灯篭、山形商人の心意気が―

 お宮様の前には丹後の国から運んで来たミカゲ石の大きな燈篭が一対建てられている。江戸末期の十日町商人である佐藤利右衛門(先祖は源氏系、 最上家臣である)が世話役となり、八日町、十日町の豪商が建てたものである。この燈篭と同じようなものが、大阪の住吉神社及び京都の北野天満宮に奉納されている。商業発展のために海上安全と家門繁栄を祈願した山形商人の心意気を誇りに思う。京都の北野天満宮のものは、山形のものより古く、形の整った本格的な燈篭であり、山形商人の話をすると神社の人は大変喜んでくれたことを思い出させる。
 八幡社境内に商売向上の願いをこめた、金比羅宮(コンピラさん)、住吉宮、常盤稲荷、妙見菩薩などの小さな祠が祭られている。前述のクヌギも宮殿の前に一対植えられシメ縄が張られている。
 八幡宮より南に向う道は、古い蔵王参道である。自動車も少なく散歩に適しているが、この道筋に鉄砲づくり職人(義光公の時代に火縄銃をつくる泉州の職人を移住させたといわれる)が約100人いたと伝えられている。この道は、昭和8年産業道路開通以前は、一貫清水→小立の鳥居→山田→半郷と続き蔵王登拝路として賑わった。
 八幡様から約1`行くと最上三十三観音第八番六椹山宗福院があり、貞観2年(860)慈覚大師が創建したと伝えられている。鉄砲町一丁目である西鉄砲町とも言われていた。六椹という地名は宗福院から始まったと推定される。その理由は、寺を建てるにあたって六隅に六根清浄を願って塚をつくりクヌギを植えたと伝承されている。本堂を含めて七高山妙法寺宗福院といわれていた時代もある。


●アメリカ軍の宿舎となった六小、戦後の歴史も物語るまち

 さて、6本のクヌギが何処にあるのか、500年以上も経ているのでわからない。この附近はケヤキ、イチョウ、赤松、サワラ、ヒノキ、ウメ、杉など広葉樹、針葉樹が多く、聖なる寺院の森となっていたと思われる。昭和30年ころまでは鉄砲町三丁目を含む南側は、畑と水田が多く、家屋が蔵王道沿いに見られるだけで淋しい所であった。今は山形西高を中心にした文化的で静かな住宅地といえよう。なお、六椹観音境内には徳川吉宗公が寄進した「高野マキ」の大木があり、平成になって再建された古い様式を取り入れた拝殿は木の香りも高く、戒壇なども拝観することができる。
 鉄砲町を調べるために市内の本屋で地図を求めた所、義光公菩提寺曹洞宗光禅寺が三日町内でなかったので驚きと時代錯誤に恥入った次第である。鉄砲町二丁目は広く、南の主要な東西国道286号まで拡がっている。
 昭和8年ころに誓願寺境内に国道がつくられて産業道路ができ、昭和16年太平洋戦争が始まったころに第六小学校が建てられ、昭和20年9月にはアメリカ軍の宿舎に利用され約7年間学校として利用できなかった。平成10年に美しい校舎に改築され、古い校舎の床下から自動小銃の弾などが見つかっている。漸く鉄砲町も平和な子どもの学び舎に戻った。
 山形中央高も第六小学校の東にでき、東南村山合同庁舎も一際高く建てられている。これらの施設は明治29年に農業振興のために創立された農事試験場の跡地に生れたもので、平成年代になって急速に都市行政区に変った所である。

≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫