五日町
≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫
昔は交通、防衛の要衝。今も
すぐそばを新幹線が走る
●町の真ん中を羽州街道が走り、諸役を免除された伝馬の町
山形市南部公民館が開かれてから連続15ヵ年も「郷土史講座」が展開されている。参加者のなかには「町細見」の愛読者が多く、感謝している。このたびは「六日町」から「五日町」と場所を変えて歩いて見たが、現在の町区は以外と小さいのに驚いた。戦前は練兵場の南はづれに「五日町」があるので、遊びに行くかと青年たちが誘い合った東西に長い町であった。現在の奥羽本線の西側のみで、以前は上町、幸町、若葉町の一部も五日町であったので、これらを含めて五日町を中心に記して見たい。
五日町は、山形城下の市日町で正保年間(1644〜48)の松平直基公の時代(鳥居→保科→松平)、諸役免除された伝馬の多い町であったと伝えられている。羽州街道が五日町の真ん中を走っており、東には行者宿で名高い八日町があり、塗師・味噌屋・ソバ屋・酒店などの商人も活躍した町である。義光公の時に「市日町」としていたが、元禄(1688〜1704)ころから市日町の活動は中止され、街道沿いの民家は商業兼農家が多くなった。その後明治の近代化に至るまで発展が殆ど見られない。
●山形城三の丸。「吹張口」御門を設け、鉄砲衆もおいた
明和8年ごろの記録によれば、当時の山形城主は川越(埼玉県)から転封された秋元凉朝公で、五日町の戸数は82軒、大半は百姓であると当時の「松木枕」に記録されている。義光公時代は、米沢藩に対応するために「三の丸」の堀を西南にふくらませて「吹張口」御門を設けた。さらに重要な防衛役として上山兵部大輔の下屋敷を設け、鉄砲衆とともに守っていた。現在の吹張口は史跡の記念碑を建ててあり、階段を下ると「三の丸」の堀跡を見ることができるので往古の山形城を楽しめる。吹張口の碑がある細い道は、朝方になると高校生の通学路になっており、南追手門(南大手門と云われる例あり)から南南東に向って行く道である。
三の丸跡から西へ進むと石垣が四方に積まれた所があり、幸町バス停に出る。山形新幹線と細い道が隣合っている所である。石垣の積まれた所には神社があったらしく、古老の話しによると、大木の桜もあったようだ。「松木枕」にも次のように記録されている。『城脇の清水に等しき出水あり。いやはやひややかなること、その水きれいばかりでない。暑き日は心太茶屋が掛小屋して並び、冷や酒、甘酒売りもある。下戸も上戸も夕涼み、堀のホタルを唄によみ、三味踊り唄など夜半に至るまで賑やかなり』
ところが、明治34年4月11日、奥羽本線が米沢から山形まで延長され、小さな山形駅が生れた。鉄路をつくるために、山形扇状地末端の清水の湧く湿地帯を三の丸の堀堤の土石で埋めたと伝えられている。(三の丸跡は第二公園の池)
その結果、山形駅が北側に拡大され、県内最大の賑やかな近代都市に成長した。御清水の冷たい水は、現在、江戸期から続く羽州街道沿いのソバ屋さんが「山形の美味しいソバ」をつくるために利用。駐車場の北側の地下水が出る御清水跡を大事にしている。
山形市の鉄道交差点で最も煩雑する所は五日町交差点で、旧羽州街道が東西に走り、山形駅の約1`先に列車が南北に通る。線路沿いに交叉する道路は駅―山大附属病院ルートなど三重苦の道路である。立体交差計画は住宅密集地帯で費用がかさむ。ドライバーの良心と我慢に頼らざるを得ない。かつて、この鉄道では自殺・事故が多く、遊興地に幽霊がでる話もあった。
踏切を渡って右側に勢至観音堂がある。以前は、上町勢至堂と呼ばれているので2ヵ町民で祀っていた社である。勢至観音堂は寛文11年(1671)宇都宮から転封した奥平昌能公の時代に、城頓という座頭行者が建立したものである。
幕末に、御堂が二回修復されているが、カヤ葺きのため朽ちるのが早く、明治43年5月に上町の工藤吉太郎が音頭をとって修復されたのが現在の本堂である。60年に一回の開帳の御尊像は75a位のものであると教えて貰った。御前仏は約50aで美しい木彫仏であった。境内には宝暦2年申年(1752)の弘法大師石像があり、西国巡礼を記念して建立されたと思われる。その他、蔵王山・湯殿山などの石碑があり、小さい社であるが町民の信仰が深い所である。
●家内安全と繁昌を見守る勢至観音。「おにぎり配り」今も
勢至観音は阿弥陀如来像の脇仏で開運と智慧を授ける仏といわれ、商人たちの参詣が絶えないという。宇都宮から雪国の山形に移された奥平公も開運を願って信仰していたという。ここの祭りは毎年1月23日行われるが、町人は江戸時代から続く「オニギリ配り」を今も続けている。町民が観音堂に夕方になるとオニギリを供える。そして、家内安全と繁昌を願い、供えると一年間安心して暮せるという。供えられたオニギリは参拝者にわけられ、子供たちは大喜びで食べ合うすがたが微笑ましい。
この祭礼の日には、市指定無形民俗文化財の「いたか町神楽」(三日町三浦健治大夫一行)が奉納される。いたか神楽は正月や稲刈りが始まる前の日を選んで各家を廻ったもので、神楽舞・剣舞・鐘馗皿や傘廻しなどの曲芸を奉納している。曲芸は約10種類あり、子どもの眼を釘付けにしてしまう。この神楽は先祖が和田幸太夫で、山形城・熊野神社などつくる時に厄払いと神事舞を兼ねていたと伝えられ、「霞城神楽」と呼ばれ親しまれている。
臨済宗長寿山静松寺は鉄道の西側にある寺で、吹張口から線路下の地下道を通る路があり、第二小学校の通学路として親しまれている所に建立されている。禅宗の一つに数えられ、元和8年(1622)鳥居忠政公の時に千葉県佐原(下総国)より移って来た。本寺は京都の妙心寺である。この寺の側に小川があり、戦前は堰止めして水遊びや魚を取る子どもたちが沢山いたという。明治7年上町の大火で焼失したが、同年秋に再建された。戦後、火災にあったり、火事に因縁のある寺だが、周辺部は静かな住宅街である。
≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫
追記
文中にある『市指定無形民俗文化財の「いたか町神楽」』は、2011年現在すでに保存会も解散し、文化財指定も解除される。