三日町
≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫
山形商人の心意気を伝えつつ
豊かな歴史とくらし物語る
●古い街並を形成し、両側には江戸期の旧家や職人の店が
長い間、東原町四丁目に住んでいたが、現在は元木に居を構えている。しかし、長年住んだ所には想い出・足あとがあり、時々帰ることになり、三日町通りを往復している。この通りは間口の狭い町屋が多く、古い街並を形成しており、江戸期の旧家・伝統的な職人の店も見ることができ、楽しめる所である。
現在、八日町・十日町・鉄砲町(誓願寺跡地)・三日町の交叉する四辻は、幕末の安藤広重の浮世絵で紹介されているが、八日町と十日町中心で一部に三日町が刷られ、遠山には「東のお山」として蔵王山があり、三日町通りは仙台通とか上八日町などと呼ばれていたらしい。古き歴史はその街に見られる寺社を訪れると理解されるように、梵行寺他3ヵ寺が見られる。筆者も若い頃、義光公の関係深い光禅寺は三日町と考えて、未熟さを知ったことがある。
4月中旬になると山形市の桜並木は美しく、光禅寺内は知られざる名所である。光禅寺は義光公時代慶長寺といわれていたが、慶長年号を使うのは好ましくないと言われ、家信公の時代に光禅寺と名称を変えたという。今の長源寺内に建立されていたが、元和8年(1622)鳥居忠政公が山形城主となり、光禅寺を上八日町の南に移転させて、鳥居家の長源寺をつくった。現代社会では考えられないような領主の権力が強かった訳である。さらに寺の移動に伴って三日町の住民を移動させて「三日町」という名を設けた。中央公民館東の商店街の所を「元三日町」と呼び、そのつながりを三日町町民は大事にしている。
梵行寺門前に「住吉」という骨董屋があり故人となった主人は、山形の歴史に詳しく、筆者も訪れるのが楽しく、江戸時代の日本道中絵図などをゆずって貰った。主人は古物を売るだけでなく、貴重な歴史資料や古民具などを保管し、最終的には勤務先であった県立博物館に寄贈していただいた。このような気風の良い商人が三日町の住民である。
●田山花袋の小説に登場する梵行寺、山門のそばに文学碑
三日町には浄土系の寺が二つあり、天王10年代(1583)秀吉が天下統一した頃に建立されている。当時の義光公は徳川方に子どもを預け、秀吉の動きに疑問を持っていた。城下町に庶民的な浄土信仰の寺が建立される年代であったと思われる。三日町二丁目の義光山常念寺も浄土宗で山号が山形城主名であり、最上領の悲劇が語り継がれている。慶長の初めに駒姫を亡くした義光公は寺名を改めたという。さらに家督相続・家臣団の権力争いが起きあがった。関ヶ原合戦を終えてから三年後、長男義康公が庄内で最上家臣によって暗殺された。29歳の長男を亡くしたが、父への武運祈願の日記を見た義光公が悲しみ、この寺に菩提を弔い、浄土信仰を深めたと伝えられいる。
もう一つの寺は正覚山清浄院梵行寺で、天正19年まで山寺系の千寿院浄成寺(龍山より下山したとも考えられる)といわれ、慶安4年(1651)に再建された寺である。山門は天童市高舘門を移したものといわれ、古い城門の一つである。一説には幕末秋元藩が高陣屋として使用していた表門を移築したともいわれている。山門から中に入り、本堂の阿弥陀如来三尊像の金箔が輝いている。また、本堂には丸顔で彩色された「腹ごもり地蔵」祀られ、48番の地蔵信仰の12番となり、安産・子育て地蔵といわれ参詣者も多い。この寺には、明治の文豪田山花袋の碑文が建てられている。田山花袋の先祖は秋元藩の家臣であり、奥さんが高生れで、明治34年に書かれた小説「続南船北馬」の中に、城門のある寺を訪れたと綴られている。形には多くの文学碑があるが、明治の文豪の碑は珍しい。
花の山形…から始まる民謡の花は、紅花という人もいるが、最上公の時代は大商品という状態でなかった。商品価値を生み出すためには@最上川舟運と日本海交易の確保A最上公の遺臣たちの資本と帰農・帰商B領主交替の激しさに耐え産業を発展させた町人の行動力、などが江戸時代の山形を発展させたと考えられる。染めの文化と紅花、奈良や小千谷縮と出羽特産の青苧、主食としての米特産地、各地の漆器と漆原料、など都市文化に対する原料産地の山形を維持して来た山形町人の生き方であった。原料を求めて、近江・伊勢・三河から商人たちが山形の町家を発展させ、地元出身の商人も成長して来たと考えられる。
●他藩の産物の動静を調べ、山形産の商品価値を高めた商人
三日町には地元出身の町人長谷川・福島家などが居住し、紅花を仕入れるために伊達藩まで出かけた。また、宿駅の役割を果すため岩手の南部まで馬を仕入れに出かけたと、三日町の住吉英作が語り伝えてくれた。江戸期における山形商人の動きは他藩の産物の動静を調べ、大消費地との交易は手形で行う知識を持っていた。
山形―仙台の街道は寛永頃から三日町を利用するように鳥居公が定め、定助郷(宿駅)として馬50・人足50人を配置した。庄内・秋田・津軽の大名通行、荷物運搬など多忙で、近村から苦情があったという。それで三日町を伝馬町といい、明るく元気な人びとが多かったようである。三日町通りには紅屋久兵エ、小林五兵エなどの大富豪がおり、名産の千歳紅・呉服などを扱っていた。長谷川吉郎治は綿・太物・砂糖・生蝋などの問屋として発展、荷問屋の渡辺家・福島家などは近村から移住して商業を営んで財をなした。現在は十日町になっているが石駒などの石工が集まり、八幡神社に山形商人の海上安全・家門繁栄を刻んだ灯篭が奉納されているが、石材は京都の丹後から運んだというエピソードも伝わっている。
現在の三日町通りには昔のシトミ戸・美しい格子戸のある旧商家、家紋のある白壁の問屋蔵などを見ることができる。八日町同様に静かな商店・住宅街となっているが、山形の商人のくらしを物語る町・歴史のゆたかな町である。
≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫