八日町
≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫
出羽三山詣での人びとで
賑わった行者宿
●シンボルは六椹八幡
山形駅前通りの十字路は十字屋デパート角・三の丸西南角・ホテルキャッスル角・三菱石油十日町給油所角などから南の方に歩くと、八日町通りに突き当り三叉路となっている。つまり、山形城下町の南にある大通りは八日町で終っていたと考えられる。そこから南西は鉄砲町で道幅がせまくなっているので誰でも間違えることがない。
しかし、十日町角を曲れば車で上山まで行けるという声が聞えそうだ。十日町と八日町・三日町(上八日町とも呼んだ年代もある)角には誓願寺という真言宗の寺があった。
昭和9年まで、子どもたちの遊びのなかに、「県庁(現在の文翔館)の前はどこだ?」という謎かけがあった。「市役所とか裁判所ダべェ」という「ちがう、お寺ダァ」と言いあった。
八日町の東角が開通したのは昭和一けた時代で、上山方面に向かう道には第六小学校もなく、一貫清水の橋、元木橋もなかった。
話を本題に戻そう。山形の町の歴史とか歩いて楽しく印象の残るような事柄を紹介しようと、改めて八日町を歩いて見た。八日町は古い歴史の残る町人町で、新しく発見したこともあって、歩いて見ることが健康的で頭もさえてくる感じであった。
八日町の歴史をふり返えると延文5年(1360)羽州探題斯波兼頼公が八幡神社を再興したころから民家が増えたといえる。八日町のシンボルは八幡神社といえる訳は、小形利吉元郷土史会長の調査によって、幹まわり1b以上のケヤキ24本、大小合せて74本のケヤキ林が古い年代のなかに八幡様が勧進されたことがわかる。社伝によると康平5年(1062)源頼義・義家親子が「前九年の役」で安倍貞任を亡ぼした勝利の記念として、柏倉門伝からこの地に勧請したという。古木のケヤキの一本には毎年シメ縄をはり八幡様北にある八幡小路の参拝口に見られ、936年の長い歴史を伝えている。八幡神社を別名六椹八幡社ということもあるが、多くのケヤキ林を見てクヌギと見間違えて「陸奥(・・)の苦(・)を抜く(・・)所」(六つの苦しみをぬく=佛語)重ね合わせて縁起をかついだらしい。
●歴史を語り継ぐ石碑
八日町で歴史を知るためには県庁と向い合せた誓願寺の歴史を訪れることが大事だ。斯波兼頼公が山形に来たころ、毘沙門天像を守り本尊とし、大郷村中野に誓願寺を建てた。その後応永元年(1394)に、二代目直家公が城内に移し、義光公の時、慶長元年(1596)に現在の地に移り、昭和5年から始まった産業道路によって規模が小さくなった。この寺には八日町の歴史を知る文書や石碑などがある。
慶長5年(1600)天下わけ目の関ヶ原合戦、山形では上杉藩と最上藩の長谷堂合戦であった。同年7月初めに、住職が町に働きかけ、先達らとともに戦勝祈願のために湯殿山参り、48日間山ごもりを行なった。義光公は山形城を守ったことで八日町衆に三山参りの行者宿をつくる特権を与えた。山形城下に数字のついた町名があるが八日町だけ街道に沿って屋敷幅が9bあり行者たちを泊める旅館が多く見られた。しかし、明治27年、昭和22年などの大火で古い屋並が少なくなり誓願寺の本堂も小さくなっている。八日町は行者宿の多い町、馬なども多くおり馬市の開かれた所で、南部から多くの馬を仕入れて、埼玉や茨城などの馬喰(ばくろう)達も買いあさった。その名残りを持つのが寺内にある「馬頭観世音」碑である。行者たちの安全を祈る「湯殿山碑」、県内でも珍らしい「豚観世音」の他多くの石碑が歴史を語ってくれる。もう一つ紹介しておきたい。
それは「やぎめす地蔵尊」である。江戸時代の始め、最上家では家督相続の争いがあり、町の人びとも生活が荒れていた。寺の近くに住む継母親子がおり、先妻の子どもには御飯もろくに食わせなかった。ある日、 4歳の子どもに焼き飯をつくって「お地蔵さまに供えてこい。お前が石のお地蔵さまに飯を食わせることができたら、お前にも飯をくわせる」といわれ、小さな手を合せて一生懸命祈ったという。お地蔵さんに泣きすがりながり口もとに飯を持っていった真心が通じて食べてくれたそうだ。子どもは継母に告げたが信じない。黙って出て行った子どもを疑い、地蔵さんの所に継母が行ったら、お地蔵さんがムシャムシャ食べていたそうだ。継母は自分の冷たい心と我が儘な態度を悔い改め信心深くなって、我が子同様に育てることにしたという。現在でも人形とか、菓子などの供えものが絶えることがないと近くのバアさんが教えてくれた。歩いて知ることができ、人と楽しく語り合えることも嬉しかった。
八日町には比較的多くの寺や神社があり、山形城下が生れた時代から多くの信仰者が暮していたらしく、城主は南の守りに利用することも考えていたようだ。八日町の隣町に鉄砲町とか職人の多く住む法華町や二日町をつくり、八日町を中心に一つの村となっていた。
行者宿になった街道筋には「三山詣り」にやって来た各地の信者たちが溢れ出し、駅継ぎの問屋、舟運によって運ばれて来た古着や反物店、山形特産の土産店では紅染め布地や、紅染めの「三角腹巻」(足柄山金太郎の赤い腹巻)、鍋・釜・鉄瓶の他佛具・三山掛軸など多く買われていった。
●江戸時代の国際都市
行者宿が溢れると寺や神社でも泊めていたらしく、団体客は5b位の長敷床にザコ寝する宿も多く見られ、夜明け方に出発する登拝者たち、酒宴を終えて夜半まで民謡を唄う旅人たち。八日町は江戸時代の国際都市で、方言まじりの挨拶で楽しんだ街であった。街には薬屋・医者・占屋・馬医者・飛脚屋も見られ、 町の賑やかさを浮世絵師一立斉広重がつくり売り出されていた。
明治34年に鉄道が敷かれてから、七日町に購買客が移り八日町も衰微して行った。
現在の歩道を拡げると、街の歴史を尋ねる人、古い蔵店で土産を求める人、元法華町の職人らと話し合う人も増えて行くと思いながら街を歩いてみた。
≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫