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小白川町

≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫

山形と仙台を結ぶ重要な街道
今はマンションが建ち並ぶ

 小白川町は、江戸初期から明治22年まで、山形城北東にある村落であったが、その後東沢村となり、昭和6年4月1日には山形市に合併された。現在は山形大学のある小白川町一丁目から、笹谷街道に沿って東方まで五丁目という町区分となっている。小白川村時代は、現在のあこや町・東原町・松波・あさひ町などの他、 飛地として長町や南館・清住町・上町あたりまで村民の所有地があった町である。ところが、往古を物語る小白川街道は道幅がせまく、大型車などが通ると対向車ばかりでなく、歩行者はブロック塀に寄りそって歩かなければならない状態であった。無灯火の自転車など通ると通行するものが安心できない。旧街道はこのような現状であるが、国道13号バイパスがあり、国道286号が東西に走っているので、旧街道は住民の道路といえよう。


●地名の通り清く澄んだ水に恵まれた町。今も豊かな流れ

 小白川という地名は、全国に白川という地名が多く見られるように、清く澄んでいる水の流れる川の名称である。蔵王火山群から流れる滑川と宝沢から流れてくる馬見ヶ崎川が合流して、山形の扇状地をつくり、江戸初期まで東西に川が流れていた。(旧河川跡には明治以降、NHK山形放送局、山形師範学校、山形県庁、裁判所、第四小学校、第七小学校と東西に官公庁が建てられている)。この河川跡の上流部で、馬見ヶ崎川の北東部に、天満神社・愛宕神社の側に村人が生活していたといわれている。義光公が山形城下の整備を始めた頃に、仙台と山形を結ぶ笹谷街道が生れ、山形城下の安全を測るために天満神社を現在の地に移し、村民も多く定住するようになった。義光公は、城づくりの大石を宝沢から運ぶことになって小白川の街道づくりを行い、且つ仙台伊達藩の動きを防ぐために小白川の人びとを利用したとも考えられる。しかし、最上家の後に山形城に入部した鳥居忠政公は、山形城下を改造し、山形―仙台間を結ぶ街道を小荷駄町口に変えてしまった。鳥居公は、城下内と水田の水を確保することと、馬見ヶ崎川の洪水を防ぐことを考えて、笹堰や御殿堰、八ヵ郷堰をつくり、馬見ヶ崎川の流れを鈴川の北西に変えるようにしたといわれている。
 それで小白川村の人びとは堰守りをするようになり、水を分割して配布する役割をもつようになった。今でも昔語りに「七日町などの町人がイバルようになると小白川衆が堰を止めてしまうので、町衆は俺たちに一目おいていたそうだ」とユーモア交りに語った。
 小白川町の人びとは豊かな水を二つに使いわけをしていた。屋敷内を流れる水は飲料水に利用していたので、今でも澄んだ水が流れている。街道沿いの水は「オシメ川」と呼び洗い物に利用した。


●戍辰戦役の時、官軍は小白川を通って山形へ入った

 明治以降、戍辰戦役の官軍は笹谷を越えて小白川を通り山形に入ったと記録されている。案内役は天童の志士、吉田大八であったと伝えられている。一本道に沿って民家があり、古くから住みついた民家は屋敷が広く、街道筋に年老いた太い松の木があったが、道路改修によって老樹は伐られ、バイパスによって天満宮の梅園が小さくなった。今はマンションが建ち並び、東はづれの松林には老人のいこいの場所が最初につくられた。江戸期から明治にかけて、天満神社の宮司が寺子屋を開き、和漢文、和算などを教えており、会田算左ェ門の墓標もある町である。天満宮を明治時代には小学校の学び舎としていたという。
 街道筋には、綿屋、こうじ屋、そば屋、水車のある粉屋などがあり、子どもの遊びであるコバタ屋(紫凧として有名)もある町をつくっていた。寺町の門前には茶屋、ダンゴ屋もあり、墓参りで賑わったと伝えられている。
 大正9年になると、山形の最高学府である山形高等学校ができて全国から学生が集まり、芋煮会をしながら「馬見ヶ崎小唄」を唄っていた。南村山郡の小白川は戸数320、人口2,015人と明治初期より三倍強の人口増となり、学生たちの住む町になった。昭和14年に山形男子高等小学校(第六小学校)が建ち、戦後は米軍に接収されたあとに山形一中に利用、現在は東部公民館、社会福祉センターと変り小白川町の施設は激しく動いた。


●バイパスが走り、大学も。地蔵講など古い歴史が息づく

 昭和30年ころまで小白川町は水田・桑畑・果樹園が家の裏から続いていた。スリルを味わう学生たちは道端から手を伸ばしてサクランボ、リンゴなど食べていたが、農民たちは文句を言わず、笑い返すと謝って帰る学生たちであった。のどかな郊外風景であったが、バイパス、県庁、総合大学などがあるために農地がアパート・マンション・民家で埋まり、近隣の交際・行事に参加するのは昔からの住民で淋しくなっている。4月24日に頭加智地蔵の所で「地蔵講」が行われ、数珠廻しを古い習慣に従って行う婦人たち、終了後の楽しい話に巻きこまれてしまった。浄土宗西光寺の本堂左側に、鎌倉〜室町ころの五輪塔が群れをなして供養されていた。寺内の墓には元禄・享保・天明年間の古いものが多いのに驚く。堂内に入ると享禄3年(1530)、檀那成沢義清(成沢城主)の銘のある大太鼓があり、県内で最古の太鼓であった。
 西に下って、天満神社、日本武尊がつくったという伝説につられて本堂を参拝すると、江戸未期の山形絵師達が描いた大絵馬、ヘボン式ローマ字で書いた百人一首絵馬(日本で一枚のみ)などを見て、山形市の歴史と文化の高さを知ることが出来た。さらに西へ下ると病院口には「一里塚」碑、正月に参拝すると御利益があるだろう。

≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫