あこや町・松波
≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫
山形県の21世紀を担う行政の中枢
そして仙台と新潟を結ぶ要衝
●朝夕に千歳山を眺められる新住宅や商店が次々と
暑い夏から東原町四丁目より、あこや町一丁目にかけて道路の拡張工事が始まった。山形市内の中央にできる四車線の東西大通りは、県庁より山形駅に向う道路で旧市内の発展に、大きな役割をもたらし、自動車交通にふさわしい都市づくりを完成させるであろう。笹谷峠につながる交通路は古代にも見られ、中世には千歳山に阿古耶姫伝説、歌人の藤原実方の歌も詠まれている。近世に至って小白川町―東沢、三日町―松波(熊の前)の旧道は笹谷峠を越えて陸奥の国仙台、松島や江戸に行く武家や商人で賑わう道であった。昭和後期に農地のど真中に16階建の県庁をつくるという考えは、初代県令三島通庸も考えていなかった。まさに、21世紀の街道ということができる。あこや町、松波、南原町、前田町、松山などに東西方向の286号、13号の国道があり、山形商工業の動脈となって結ばれている。欠点は自動車の排気ガスが多い事だが、近くの美しい緑の山なみが人びとのくらしをうるおしてくれる。21世紀には排気ガス汚染を高度な科学技術で解決してくれることを願う。
●静かなたたずまいを見せる千歳山霊苑。6,000柱が眠る
あこや町は、旧前田地区・小白川地区・南原地区の一部から区画整理が始まったのが昭和35年ころからで、旧蚕業試験場跡(昭和44年楯岡に移転)、山大に至るまでは昭和39年〜43年に区画されて道路が生れ、住宅地に整理された町である。駅前通りを延長して国道13号バイパスに直結する道も生れたのである。現在は、あこや町の中心街となって商店街がつくられ、市中央の商店が移転したものも多く、将来は楽しい町に変化して行くと思われる。
あこや町が生れるころは、東原町のように水田や畑、果樹園の多い町で、東原町五丁目という名称も考えたが、美しい千歳山も存在し、阿古耶姫伝承にちなんで、「あこや町」に決定したという。特に、あこや町一丁目は、以前から東原町四丁目と兄弟町の関係が深く、町内事業も共同で行われる例も多い。この地区は、旧制山形二中(山形南高)の周辺に生れた町で、南原町との間は江戸末期の笹谷・仙台道となっていた。米沢・上杉鷹山公の恩師である細井平洲(1728〜1801)も仙台・松島旅行の時に通過している。明治14年には、有栖川宮熾仁たるひと親王も平清水公園を訪れて歌を詠んでいる。明治29年、霞城公園に32聨隊が生れたころ、南原(現在のあこや町一丁目)に陸軍墓地を設けた。霞城に入隊した兵士はこの道を通って千歳山ふもとの射撃場(現在の松山)で訓練した。陸軍墓地は、戦後、国より県に譲渡され、昭和34年に千歳山霊苑と名称を変え、約6,000柱が納骨されている。広場周辺には、満州移民・義勇軍の碑もある。一度訪れたい所であるが鉄さくで閉じられ、霊地として守っている。市民の健康な遊園地にすることによって殉死した霊も喜ぶと思うので毎日開放して欲しい。
あこや町二丁目は山形大学南東部にあたり、昭和42年新築した住人が山形銀行の寮を借用して会を開いて二丁目が生れた高級住宅街である。この土地は発足当時から高い坪単価で取引され、広い土地を持っている地主はマンションや学生用のアパート建設を実行した。郵便局、銀行、医院も存在して近代的な静かな住宅街であるが、寺や神社もなく、近代的な集会場(東原町四丁目・あこや町民の希望)も存在せず、交流の場があってこそ地域社会の発展が生れると思う。
あこや町三丁目は昭和43年ころより町づくりが行われたが、水田や畑の多い所だったが、毎日、千歳山を眺めて過ごすことができ、最近は派出所も完成して不安も少なくなった。あこや町全体としては、笹谷トンネルに通ずる自動車騒音に悩まされる点が欠点といえよう。
●16階から市街地を鳥瞰し、まわりの山々の緑を楽しんで
県庁16階の眺望は四方の山々の美しさと市街地の景観を見下ろすことができる。新県庁のある松波は新行政区として県民から親しまれているが、車のない人のバス乗降は大変不便な街である。昭和30年ころまでは、山大・山形南高以東は殆ど桑畑、果樹園、野菜畑、水田が多い地区で。現在の県庁前の緑地公園の水は馬見ヶ崎川から取水して灌漑用水をたくみに利用している。
県庁建設が始まったころ、土中から数多くの遺跡跡が発見された。山形扇状地の扇頂部にある「熊の前」という所は、水に恵まれた台地であるため、古代の人びとが米つくりの仕事をした。この遺跡は、山形考古学研究会員によって発掘され、一次〜四次調査報告がなされている。比較的大きな住居で複式炉も見られ、約60棟の縄文中〜後期の遺跡と多数の土器が発見された。また、死人を葬った「かめ」なども同じ場所から数多く発見されている。多分、千歳山や東側の妙見寺附近まで古代の住居が拡がっていたのかも知れない。つまり、松波全体に歴史的な村人が暮していたと考えられる。
小白川から、千歳山の方角に向う古い農道があり、昭和30年ころまでリアカー道とも呼んでいた。附属小学校の北東の方向に、太い一本杉があり、農民たちの憩いの場所で親しまれていた。
近くには、三浦八右ェ門という豪族の屋敷があった所で、現在は「松波公園」となっている。昭和45年ころまで「一本杉」と呼ばれ、お稲荷さんもあったが、新興住宅街として整地されてから神仏信仰の跡が少なくなった。
県庁移築の話が進んでいるころに附属小学校ができ、児童の登下校で賑わうようになり、中学校も設立された。昭和50年代になると県警察、東沢中学校と統合した第一中学校も開設された。松波も千歳山沿いに拡大され五丁目まで住宅街が発展して行った。
古い万松寺前の小径は、千歳山麓と思っていたが多くの参詣者があり、阿古耶姫伝説のロマンを語り、寺前の野口雨情の碑に驚き、山形特産の玉コンニャクを食べながら散策を楽しめる町となった。新潟と仙台(日本海と太平洋)を結ぶ286号線の中心にあり、仙台市につぐ東北の副都心としての山形の発展を考えて行きたい。
≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫