小荷駄町
≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫
商業学校設立に山形商人の心意気
緑多い住宅地、文化体育施設も
●静かで楽しい町。子どもの健やかな成長を願って祭りが
4月12日、南部公民館で郷土史愛好会の総会が終り小荷駄町の通りに出たところ、子安観音の祭りに出合った。昭和26年、高校を卒業して久し振りの風景である。早速観音堂を拝し、ご尊像を見てびっくりした。「マリア観音」?と思い、拝殿に座って拝した。しかし、赤ん坊を御衣で包んでいる形であり、子どもを育て、遊ぶ子どもを守ってくれる観音像であった。御本尊は秘伝で30年毎にご開帳することになっており、15年後になれば拝めると聞いた。ある氏子が写真を持って来て見せてくれた。形は聖観世音座像で、厨子の御前仏が子安観音であり、御堂の名称になっていることがわかった。小荷駄町は小さな区割の町であるが、静かで楽しい町であった。子どもたちの樽御輿も賑やかであった。
最上義光公が山形城下町を築いたのが慶長年間(16世紀初め)、この年代には小荷駄町という町名がなかった。小荷駄町の一部になっている「弓町」は三の丸の外側になる侍屋敷で、弓ノ町・弓鷹町といわれ、弓造り職人町・弓を持って防ぐ侍役の屋敷のあった町であった。(高橋信敬著「山形城下町絵図」による)
小荷駄町は、最上家の後に入部してきた鳥居忠政公(元和8年〜寛永14年―1622
〜1637―)が三日町をつくり、その東側に「仙台道」の境にあたるところに荷物を取り扱う町人を住まわせたことから始まっている。二つの町が合併したのが明治11年で、「小荷駄町」というようになった。
その後に入部したのが保科正之公(1637〜1644)で約600人の家臣が笹谷峠→新山→妙見寺→熊ノ前→小荷駄町を通行して山形城下に入り、その苦労話を、会津城下(山形より会津に転封して保科氏は松平姓に変った)で聞くことができた。小荷駄町の人びとは荷物取り扱いが専門で「諸役御免町」となっていた。保科肥後守正直は徳川家康の孫にあたっていたので幕府の力が後楯になっていた。
●商業後継者の育成に商業学校を設立。 多くの人材を輩出
明治22年に山形市が誕生し、今年で市制110周年を迎える。江戸期は領主の出入りが激しく、生活を守らなければならぬ商人たちの活動が優れていた町であった。大正時代になると、商人たちが後継者育成のために、旅篭町生れの渡辺徳太郎氏(1870〜1946)を初代校長に迎えて大正13年小荷駄町に学校を設立した。十日町や七日町・三日町などの豪商が土地を提供し、商業後継者の育成につとめたのが始まりである。県内各銀行の頭取として活躍した故人の三浦弥太郎・長谷川吉内・長谷川吉郎次の各氏らが卒業して金融業の主役となった。現在では、七日町などの商店街の大沼八右ェ門、横田隆一郎、結城幸三、五十嵐太右衛門、小嶋祐一、蜂谷五郎兵衛、小嶋源五郎、鈴木傳四郎、山澤進、高井利雄、煖エ倫之助の各氏らが学び舎として勉強に励み、山形商工業の中心的存在となっている。(敬称略、紙面の都合上割愛した)
山形商業の生徒は家業を継ぐために入学することが当然の事と自負していたが、新教育制度のもとで商業高校になって大きく変化している。小荷駄町からあかねヶ丘に移転したが、小荷駄町の山商の意気を再生し、激変する情報化社会に対応できる新しい商人根性を見たいものである。
山形城下の東南はずれの小荷駄町周辺には、江戸時代を振り返って見ると、街道筋は屋並がそろっているが、裏の土地は畑が多く、耕地は城下町の町人たちが地主となっている例が多い。山形商業は三日町の豪商が山形市に寄贈したもので、地名は庚申裏といわれていた土地であった。学校一つ建てられる土地を所有できるのが、江戸時代の山形商人で、利用する場合は、その町の発展に寄与し、町民から喜ばれることを実行する豪商たちの根性が感じられる。
南部公民館の入り口には「庚申堂」(真言宗)があり、その境内には、商売繁昌を祈る「金比羅宮」を建てたり、湯殿山の石碑を幕末に建立している。十日町にあった商人和久井助左衛門は、弓町に安産地蔵堂を建立し、城下町の出入する所に、商いの旅の安全を祈り、物心ともに安息できる御堂をつくったといえよう。庚申堂前に「子育観音」の御堂を修復した三日町の豪商長谷川某なども、城下の出入口に当る所を安息できる場所としたと考えられる。それより約200b仙台道に進むと関守がいることも商人たちは理解していたと思う。また、江戸期の商人は山形を生活の場として、仙台道を利用し、マーケットを仙台伊達領に拡げ、紅花・青苧などを買い付け、山形米や関西の商品を売り捌いた。仙台道の始まる小荷駄町の入口はクランク型となり、太子堂が祀られ、城下の職人たちの信仰の御堂になっていたが、現在は市内に入る新道が走っており、山形城下の出入口となっていることは知られていない。小荷駄町を含めて周辺の町は完全な住宅街となり始めたのは戦後になってからといえる。
●市立図書館や南部公民館、体育館。一帯は市民の憩いの場
山商跡地に、南部公民館、市制85周年記念として市立図書館がある。市民憩いの公園は緑多く、ウグイスの声もひびき、子どもたちの遊び場に最適である。図書館は開架式で、幼児・老人も自由に引き出せるようになっている。寝ころんで本を楽しむ図書館設備もある。
公園の片隅には、山形の生んだ日本の和算学者会田算左ェ門(1747〜1817)の胸像がある。内海重兵衛を父とし、16歳で学問を身につけて上京し、和算を学び関流に対抗して最上(さいじょう)流の和算学をつくった。出版された本は2,000余冊、弟子たちが、没後、浅草観音の境内に「算子塚」を建てて葬祀している。算術の好きな人びとを育て、和算学を明治時代まで影響を与えた学者である。これらの和算が山形の商人を発展させた原因でもあり、改めて感謝の心が生れてくる。
≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫