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東原町

≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫

市民の憩いの広場もみじ公園
そして学生でにぎわうまち

 高校教員を退職してから10年目を迎え、長い間厄介になった東原町には思い出深いものがあり、密接なつながりを断ち切れないものがある。少年時代から厄介になった町は、現在では一〜四丁目まで区分された町に大きく様変わりした。往時は地蔵町あたりから「ヒガシッパラ」と呼ばれる畑や荒地であった。呼び名が面白く、東原の原という字を「パラ」というが、隣国では「パル」、九州方面でも西都原の事を「サイトパル」と言う。南と北で、しかも都より遠い所に古い共通語が残っていることも興味深いものがある。このことは民俗学者柳田国男が事例研究をして、周圏論を発表しており、東原町も山形県の最高学府を前にした町で、学生の多い町である。


●閑雅な池泉回遊式の古庭園、数寄屋造りの茶室宝紅庵

 東原は、昭和11年7月15日に山形市東原耕地整理組合と県側の話合いのもとで生れた町である。東原町一丁目と二丁目の一部は地蔵町の一部であり、真言宗宝幢寺の寺領となっていて、北の地蔵院まで広がり、明和年間(1764〜1771)には28軒の農家があったといわれている。
 明治以降(1868)、同2年に山形市となると、醤油づくり2軒、豆腐屋、桶屋、いさば屋、病院などができ、大正2年(1913)には山形市立第五小学校が創立され、山形市の中級住宅街に発展した。
 東原町二丁目には、山形城下町で最も美しい庭園があり、植栽された古木のモミジや山形の扇状地に生えていたケヤキ、杉などと幾重にも重なりあって池に映る緑陰のすがたに足を止めてしまう。山形城の始祖斯波兼頼公が民心の安定をはかるために、大曽根の庄にあった古寺をここに移して、真言宗の宝幢寺を建立した。当時は小さな池を設けていたらしいが、貞享3年(1986)、当時の松平直矩公(後に姫路城に転封された)の姫君が病気になり、寺で祈願した所良くなったと伝えられている。松平公は、お礼に京都の高尾山から紅葉を取り寄せ、大小の庭石を並べ、回遊型の庭園をつくったといわれている。この庭園には築山が三つ、三尾の山(高尾、槇之尾、栂之尾)があり、池は「心字池」で小堀遠州流を伝える池泉回遊庭園と言われている名園である。
 さらに、美しい庭園を借景として、昭和53年に清風荘の隣に「宝紅庵」という茶室が設けられた。話は前に戻るが、昭和26年に山形市中央公民館分室として利用されるようになり、市民の憩いの場所として親しまれていた。茶室「宝紅庵」は2ヵ年にわたって建てられ、すべての流派が利用できる市民の茶室となっている。この建設にあたって、お茶を楽しむ市民が寄付金を集めて市当局に訴えて生れたもので、京都の伝統的な茶室を建てるため、市役所では京都工芸繊維大学の中村教授に依頼して設計されたものである。
 以前からあった清風荘は、結婚式にも利用されていたが、現在では市内の和楽、詩吟などの会から毎日利用され、秋の紅葉を楽しみながら、山形市民の文化交流の場として活用されている。


●地蔵町通りにある地蔵院、祭礼の4月24日は大にぎわい

 駅前通りの成願寺角から南北に走る道を「地蔵町通り」と呼んでいた。成願寺は義光公の時代に建立された浄土宗の寺である。宝暦2年(1757)、馬見ヶ崎川が大洪水となり、笹堰の水が溢れて香澄町の方へ流れていった。その時、寺屋敷の一部が流されたので「クボの寺」といわれ、その跡地に「子育て地蔵」がまつられている。この寺は明治27年の山形南大火で焼けている。山門の前には大きな出羽三山碑があって信者から愛されているけれども、県庁―駅前通りの道路拡張計画で間もなく移転するので、市内の歴史が1つ減って行くのに心痛む。
 地蔵町通りの北には宝幢寺の末寺である地蔵院がある。山形市内に約170ヵ寺があるが、真言宗地蔵院という寺の名前はここだけである。4月24日が祭礼日であり、地元の青年たちが汗を流して大活躍。
 山形城主鳥居忠政公が松原に行く途中、地蔵院口に「下馬」と書いてあるのに、「田舎の寺、下りるものか」といった所、地蔵堂から発する光を受けて落馬したという。古い道筋は道幅がせまく、バスも駐車できないのが残念である。大学前の新道くらいになって欲しい。


●旧制山形高等学校などが誕生、授業をさぼった学生たちも

 明治の近代化に伴って、十日町角から東に向って道路がつくられたのは、明治9年に山形県が誕生してからである。明治34年に山形駅が開業して地蔵町通りまで道路が東に伸びて来た。その後、大正10年ころまで東に伸びなかったが、9年に小白川地区の桑畑を開放して「山形高等学校」創立され、小荷駄町には、 山形商工会議所の努力によって、大正七年山形市立商業学校が誕生。このようにして東原町三〜四丁目の十字路が誕生したのである。それでも「山形大学通り」より東の方に道らしいものはなく、昭和16年ころに県立山形第二中学校(山形南高)ができて、東原町四丁目の東はずれまで道が拓かれたが、あこや町など考えられなかった時代である。大正から戦後に至るまで、東原町には桑畑や果樹園のなかに民家が建っていたといっても過言ではない。旧制山形二中や旧制山形高等学校生など、授業をサボッてりんごや桜桃をとった思い出を語る人もいる。


●歩行者にもやさしい幹線道路、四車線の山形停車場松波線

 山形南高前の東原町4丁目は昭和16年から18年にかけて、県内で初めて建設した市営住宅で、戦争中、日飛軍需工場で働いた人、夫が戦争に召集された家族が生活していたが、市内で最も便利な住宅街に変わってしまった。
 駅から東の県庁(昭和48年移転)までの四車線道路(一部未完成)は、山形の主軸となり次世代の代表的な商店街になって行くだろう。

≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫