山形観光情報専門サイト WEB山形十二花月


諏訪町

≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫

山形の歴史を見守る大ケヤキ
駅と県庁を結ぶ大動脈が走る

●県庁が移転し、町の真ん中を走る道路の整備が急ピッチ

 平成11年12月4日(土)即ち1999年、東京―山形間の新幹線つばさが新庄市まで延伸され、新しい駅舎のある市町で大イベントが開かれた。奥羽本線が山形駅まで延長されたのは明治34年(1901)4月であり、1901〜1999年という年月がかかった。山形駅誕生の頃の駅前通りは十日町まで、その後諏訪神社の南側に道路が開かれ、県庁通りになるとは考えられなかった。昭和5年ころには諏訪神社の鳥居前(材木町)から、南北に走る地蔵町通りまで延長、昭和16年までに山大通りまで延長され、昭和18年までに現在の山形南高の東北にある十字路まで出来た。山形二中(山形南高)が生れ、末広町に日飛工場(現在の山形西高)の社員宿舎(東原町四丁目)が生れて町が広がっていった。昭和34年に町区が改められてあこや町が誕生し、さらに東へ道路が伸びた。昭和50年に県庁が移転して道路拡張、まさに、県庁通りは山形の近代史の足跡をつくり、21世紀の山形市街大通りを改変されようとしている。諏訪町の古木大ケヤキは約500年の歴史を眺めながら生き続けてきた。
 山形市内の古い寺社には古木のケヤキが多い。薬師公園のケヤキ・八日町の八幡神社・六日町の熊野神社・諏訪町の寺社など大ケヤキ樹林帯として親しまれている。
 目通りの樹幹周り3b以上のものが5本、2b以上7本が境内にあり、1.5bの古木が6本道路沿いにある。
 諏訪神社は室町幕府の戦乱時代に建てられたものである。
文明2年説(1472)、6年説(1476)があるが、最上家五代の義春公の時代に創建されたことは歴史的にも明らかである。当時は戦国時代で武家社会も庶民の生活も疲れ切っていた。事実、城主義春公・頼宗公・義秋公三兄弟の世襲が複雑な形で行われている。(市史上巻632頁参照)。義春公の時代は山形城下を安定させるために、寺社をつくった。一つは仙台道の出入口近くに諏訪神社と慈尊院竜福寺(現在なし)などの寺社があり、現在でも三つの寺がある。二つ目は寒河江庄の出入口にあたる下条方面に龍門寺(義春公菩提寺)、正覚寺などがある。山形城下の南東と北西の防衛を配慮した寺社つくりであったと考えられ、おスワ様の名称が町名になったのは義光公の時代である。


●信州の諏訪神社より勧請、農耕神として厚い信仰を集める

 とにかく、山形城の戦国時代を見ていたのはケヤキ林であったようで、神社に伝わる創立当時の伝承(神社門前の安藤勝美氏による)を紹介しよう。
 山形城主義春公の時、民力が疲弊していた。ある夜、枕元に白髪の老人がたち「われは諏訪神である。汝、信仰の心あらば南東の樹木ある所に祀りなさい」といって夢枕から消えたという。義春公は直ちに長野の諏訪神社より勧請して起工に踏み切った。ところが俄かに曇って大雨となり、農民たちが大喜び、その年の最初の収穫は茄子であった。周りの人びとは感謝をこめて、信仰心をナスに託して毎年供えるようになったという。以来、おスワ様は農耕神として信仰され、龍神さまも祀られた。ヒデリが続くと山形南の人びとが神社に集まり、雨乞いをし、龍山にのぼって祈ると必らず雨をもたらし豊作になったという。諏訪町に大きな屋敷を持つ人が多く、おスワさんの加護を受けて東原の田畑を拓き、豊かな稔りに恵まれて過ごしたようである。
 明治以降、おスワさんは学問の向上に尽し、戦後には幼稚園、予備校をつくり、短大など社会人としての学問向上に努力している。近年は神社前で毎月第一日曜日、「古物・骨とう市」が開かれ、「お宝ブーム」で賑わい、 大きな街おこしを目指し仙台の商人も参加するようになった。


●成願寺山門わきの出羽三山碑に羽黒、湯殿山、月山の文字

 山形駅よりバスで県庁方面のお諏訪様を過ぎると、第六中学校方面から改修された道路と交差する所に成願寺という寺がある。慶長3年(1598)に創建されたが、馬見ヶ崎川上流の洪水で笹堰あたりが崩れ、釈迦堂―馬見ヶ崎―諏訪町あたりまで流れることが度重なっていた。この跡が、 現在の県庁通りとなった訳である。山形市史には寛永18年からの記録だけで、大洪水は60回以上といわれている。明治23年の大洪水は、水深150a位あったといわれている。洪水で困り、旱魃に悩んだ山形城下の災害防止のため、現在の松原あたりに笹堰を作った城主は、鳥居忠政公の時代である。それでも馬見ヶ崎の氾濫は止まらなかった。
 江戸中期頃、宝暦年間(1760頃)県庁通りに大水が溢れ、大きな石が沢山流れて来たという。寺の所が大きくえぐられて窪地が生まれてしまった。その中に美しい地蔵様がおり、坊さんに頼んで「この地から動きたくない」と夢の中で話した。朝、外に出てみると大石に守られて窪地に立っていたという。諏訪町の百姓たちも大いに喜び参拝者も絶えず、子安・子育地蔵として親われるようになった。いわば諏訪町の守り本尊であり、現在でも春の祭りには参詣者で賑わっている。しかし、道路の大改修工事が間もなく始まるので、町の歴史がまた一つ消えることになる。もう一つは、成願寺前の出羽三山碑である。大通りに面した2bくらいの出羽三山碑は幕末のものであるが、鈴川町の一乗院には、貞治2年(1363)の月山行人の碑がある。幕末の三山碑と歴史がつながっている訳だがなくなる恐れがあり淋しさがつのる。
 諏訪神社の南側に、ケヤキに囲まれた寺院(曹洞宗)があり、何れも義光公の青年時代に創立された古寺である。成沢城主氏家尾張守の開基された常林寺・三の丸外に建てられた法昌院(後に禅宗となる)の門前は、十日町と仙台を結ぶ古い街道であり、肴町で賑わった道で、東は弓町となっている。肴町は山形城下北西にあり、日本海や最上川舟運によって運ばれた魚や干物を売っていた。ここの肴町は、十日町や八日町の町民を相手に、仙台方面から生魚を仕入れて販売し、後に横町東の魚問屋をつくる商人たちが活躍した町であったが、昔の面影は殆どなくなってしまった。

≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫