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横町

≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫

卸売業、金融業、郵便局や電力会社も
山形の近代文明発祥の地

 平成4年(67国体の年)に、山形市の身近な歴史や文化を知る手がかりの一つとして、城下町時代の町名を石に刻んで建てるようにした。舗道の片隅の黒い四角型の石塔に、昔の町名が刻まれているので、近くに住んでいるオジイサンに話を聞くことをすすめたい。市内に約50本建っているので街角ウォッチングも楽しめる。


●特別な時にだけ開いて通行した「三の丸横町御門口」

 先に香澄町を紹介したが、その時に町内を歩いて「香澄町字横町南」という石柱を見つけた。市民会館西側に建てられているので、古い地図で調べると「三の丸堀」の武家長屋ということがわかった。その道を東の方角に歩くと(現在の道は改修道路)、山形中央郵便局北側の石垣道を通るようになる。ここが「三の丸横町御門口」となっていた所である。横町口は、七日町口(済生館の所)と十日町口の中間にあたり、通常の通り門でなく特別な時に開いて通行したようである。故長井政太郎山大教授が、山形城下町を調べて次のようにまとめている。
 横町は、三の丸十日町口と町人町を結ぶ道は東西に走って長い町の道が発展していた。(現在、佐藤利兵ェ宅西側の道で、東は村井清七宅の前の道まで)。それに対して南北に細い道が横に見られたことから、慶長年頃から横町と称するようになった。(昭和29年版「山形市の町」 市役所発行)


●九は四たす五、だから四五町に。語呂が悪いから「横町」

 ところが、町人町の伝承には、七日町と十日町に挟まれて横町の市日がない。義光公時代に「九日町」は尾花沢の延沢城にくれたという。町人は、四と五を加えて九日となるので、九の日に市を開きたいので四五町(よご町)にし、語呂が悪いから「横町」というようにしたと語り伝える人も見られた。いずれにしても立派な商人も多い町であったことは確かで、明治12年の統計では、戸数60戸である。
 昭和26年には、人口が543人、世帯数が105で、卸売業95、金融業22、公益業(郵便局、電力会社、電報電話局など)12となっており、小さな町であるが山形の近代文明の発祥の地といえよう。なお昭和27年4月27日「本町」となる。
 四五町と伝えられる横町は、七日町と同じように「七の日」に市を開いていた。今から約300年前(元禄10年頃)は、町人町に沿って商家が並び、屋敷の幅は四間半の間口で、豪商は2軒分の間口を持っていたという。横町には、明和年頃から魚問屋が3軒あった。戸数70軒の町、魚問屋があって店先にはムシロ暖簾(のれん)を掛けて魚を卸して売っていた。朝四つ時(午前10時)に、仙台・酒田より仕入れた生魚塩魚に至るまで持ち運んで商売し、近郷近在の人、他国の人が沢山持ち運ぶ有様を記録している。(明和8年―1772年―「松木枕」)
 幕末の「山形雑記」には、魚問屋がやや不況になったので、秋元藩が3年返還で100両貸出して魚問屋を活気づけたところ、魚屋株も高くなり、弘化2年(1845)ごろには魚屋が14軒に増えたという。この歴史が、明治になって山形一の魚市場になったといえよう。丸魚のあった所は、日本キリスト教団山形本町教会あたりと言われている。


●郵便局で電信業務開始。電信柱に荷物を結び、東京へ送る

 横町に明治の風が吹いたのは、明治5年7月(1872)に山形郵便所が設けられたことから始まる。江戸時代は、全国チェーンの「島屋」が飛脚を使って配達していた。その後、明治9年には、郵便局に定連雅府(てれがらふ)(電信業務)の仕事が生れた。一夜にして、東京に連絡できると聞いた田舎人が、電信柱に荷物を結んで、東京に届くように拝んで、翌日に出かけたところ、荷物がなく、「東京に届いた」と喜んで帰ったという笑えぬ話もあった。
 日本で電気がついたのは明治11年3月25日で、当時「紐ランプ」と呼んでいた。山形では明治33年5月10日、白岩発電所から送電されて点灯された。山形電気KKをつくった塚田正一、山形の浜村勘太郎初代市長らの努力で発電所をつくったのが始まりである。暗い夜に光りが灯るということで、楯岡あたりの人びとも弁当を持って見物に来て、夜を楽しんで帰ったという。これが山形の東北電力の前身であった。横町から発信された文明開化には第一小学校もあり、昭和の「鉄筋ビル」の学校は東北で1校のみで、文化の殿堂を守ることも考えて欲しいものである。(平成14年国指定となる)

≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫