十日町
≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫
近代的なビルと蔵造りの商店がとけ合う
古くて新しいまち
平成9年度から約1ヵ年かけて十日町稲荷角より南の方角八日町角まで消雪舗装道路ができ、国道112号誓願寺から旧県庁までが新しくて安心して歩ける道に生れ変った。三島通庸時代に道路改修して以来、約120年間を経て改善された訳である。それまで、老舗の店が並ぶ十日町といえる状態でなかった。平成10年度は一方通行も一部解除され、稲荷角から112号は上山方面に自由に通行できるようになったが、美しい舗装道路を歩いている人は殆ど七日町方面に向かい、南へ向かって散策する人は数少ない状態である。
●江戸期には豪商が軒を並べた。今もその歴史を伝える
義光公が城下町を形成したころ(17世紀初め)、十日町は天台宗正楽寺と勝因寺を結ぶ道に門前町としてつくられた十日市であった。その後、寺の移転による町の整理によって、南北に走る道沿いに十日町村が生れた。最上家が近江国に移封した時、家臣のなかでそのまま山形城下に残り、町人として生活した人びと(大、十など)が十日町や七日町で生活し、江戸期の地方商人(じかた商人)として活躍するようになった。
八日町の八幡神社の拝殿道の石燈篭には、海上安全・家内繁栄と刻まれ、その後方には江戸末期に活躍した八日町と十日町で商売していた豪商たちの名が刻まれている。
東講商人鑑の十日町商人記録
安政2年 (1855) 江戸湯島大城屋版
呉服太物類 足利屋清兵ェ
酒 造 店 藤田屋喜右ェ門
薬 種 所 近江屋清五郎
薬種諸紙 大坂屋治右ェ門
小間物卸店 高田為次郎
三都小間物 加野屋忠右ェ門
薬種砂糖所 長谷川彦六
呉服麻物太物古着 岩瀬屋太惣治
紙煙草入卸所 五十嵐屋又兵ェ
呉服太物店 長谷川吉内
呉服太物類 横川屋勘兵ェ
繰綿太物卸店 長谷川吉郎次
繰綿太物卸店 大屋利兵ェ
繰綿太物卸店 村居屋清七
諸国産物注文積下所 大和屋惣右ェ門
定飛脚所 西屋彦兵ェ
薬 店 村居清五郎
和漢書林 北条忠兵ェ
呉服太物卸店 佐藤利右ェ門(後に醤油醸造業)
燈篭の石は、中国地方の花崗岩で、日本海を北前船で運び、さらに最上川を逆のぼって来たことを考えると、商人たちの信仰の深さと伊達な生きざまを知ることができる。しかも、燈篭にはアカリをともして荷物の積んだ船先が明るく安全に航海できるように願いをこめて燈篭の灯を守ったといわれたり、商品の安全と取引相手の信用を確認する目的を灯火に願っていたともいわれている。現在では、十日町北部にはクリスマスのシャンデリアがお客を楽しませているが、稲荷角から南側の通りにアカリがなく、江戸時代の商人気質が薄れたのかどうか、耶蘇の行事は無関係と思われているのか聞き洩らしてしまった。
●歌を詠み合い、恋を語り合う若い男女。小野小町の伝説も
稲荷角というのは真言宗宝幢寺(東原のもみじ公園にあった寺)の末寺で五仏山如来吉祥院のあった所で、明治34年に山形駅がつくられたころに、駅前通りの道がひらかれ、五十嵐テント屋の所で三辻となっていた。吉祥院という寺は廃寺となり、寺内に祀られていた稲荷神社が主体となってイナリ角といわれるようになった。尚、明治3年(1871)2月19日に神仏分離によって歌懸稲荷と呼ぶようになった。現在の稲荷神社は平成10年に改修され、以前より荘厳で美しい神社になった。筆者は旧制中学に入学し、6年間同じ学校で過した戦後派であるが、この神社の高い縁側で、友人と本を読んだり談話したり、大変世話になった神社である。時折、宮司がやってくると供え物の菓子をくれたり、雨天の時は拝殿に招いて貰ったので思い出深い場所で、裏手に廻ると空堀の三の丸跡に入って、ケヤキの大樹に寄り掛かって雑談にふける事もできた。
稲荷さんの南には斎藤歯科医院があり、先輩であったために歌懸稲荷の由来などを教えて貰った。歌懸というのは、歌かけ合って恋を語り合うという意味と詠んだ歌を短冊に書いて納めるという意味があったらしい。前者の方は中国の山岳民族に見られる若い男女の即興詩で唄う恋唄などの習俗に見られるものである。後者を物語るものとして、平安時代の歌人小野小町が訪れたといい伝えられている。また、藤原実方があこやの松の千歳山を詠んだ歌を社殿の前の橋に掛けて立ち去った話などが伝えられている。この神社の広さは、第二公園まで広がっていて、十日町の大工町迄が境となっていた。この神社は、斯波兼頼公が南東の守り神として修築した古い寺である。
●市神を祀り、初市は県内外から大勢の買い物客で賑わう
寛永13年(1636)の記録によると屋敷数が約200軒あり、元禄頃には紅花の開花期にあわせて、七日町と十日町商人が自由に紅花市を開くことを許されていた。十日町の町人は十日毎に市を開くことが認められていたが、店を開くのは勝手にしていたらしい。しかし、正月十日だけは市神を祀る初市であり、十日町の特権であった。
明和6年(1769)ごろの記録に初市の賑やかな行事が見られる。現在の市神碑は湯殿山神社に祀られているが、大屋利兵ェの前にあったので記念碑が立っている。当時の初市は、市神に自分の年だけ銭をあげて商売繁昌を祈ったという。参詣人は、その前で泥んこになりながら銭を拾った。侍も無礼講だったらしい。
現在の初市は県内外からの客で賑わっているが、2年程前に仙台市の友人に働きかけて、団体で見物して貰った。仙台市から訪問客の殆どが、初めての見物で来年は友達と来るよと約束してくれた。古いノレンの中で商売をすると道が淋しくなる。是非とも十日町を再び賑やかにするには現代感覚でPRする事が大事と思う。
≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫