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双葉町・城南町・城西町


≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫

かつては軍隊の練兵場があった地域
県都の21世紀を創造する駅西地区

●完成間近の高層ビル、新しい拠点づくりが急ピッチで進む

 20世紀末になって山形駅西口における都市開発は、電車の乗降客から驚愕の目で見られている。山形駅西口の都市化は市民も嬉々としているが、都市化現象は昭和25年以降から始まった訳で、戦前は山形32聯隊(霞城公園内に明治30年に兵舎ができる)の練兵場で、民家らしいものは見られなかった。昭和10年前に発行された5万分の1の地図を見ると、練兵場と山形城の間に東西に走る道があり「椹沢街道・飯塚街道」と呼ばれ、民家が数軒あるだけであった。城南町大通りは砂利道で、昭和29年大山形市合併当時まで砂ぼこりの商店街であった。
 昭和35年山形市の人口も18万を越し県都にふさわしい都市化現象が生れ、一転して奥羽本線西側の都市計画が推進した。でん六工場が建設(昭36)されたり、竹田女子高校、第十小学校、YTSテレビなどの建築も見られるようになった。この地区の市街化現象は約40年間で急速に発展したといえよう。
 双葉町は昭和42年町名変更によって設定された町名で、山形駅西口の大半が双葉町一丁目となっている。昔は、山形城三の丸の吹張口の西にあたり、六十里街道の道を行者たちは参詣道に利用した。山形駅西口は山形鉄興社、変電所ができる前、大正4年(1915)に、32聯隊の練兵場として活用されたが、二枚翼の飛行機が飛んだことがある。アメリカの民間飛行家アート・スミスが飛行機に乗って山形を訪れた。当時の見学料は2銭で、最新型の乗物を見学する人たちで賑わったという。大正6年には日本人の尾崎行輝(尾崎行雄の長男)がアカトンボ型の飛行機で来形し、市周辺を飛び廻ったといわれている。城南練兵場は、比較的開放されていたが、昭和10年代になると軍事上から入場禁止の立札が見られるようになった。
 この地域は、山形市大合併による影響が強く、五日町の一部を中心に、二日町、香澄町などの町人たちが所有していた土地を併合して「双葉町」の誕生となった。奥羽線沿いに国鉄職員の住宅とか職員アパート、国鉄職員養成所、鉄興社職員の住宅などが見られた。駅附近には団地型のアパートが作られ、双葉町の旧名である南追手前(山形城南追手門の南にあたる地区の名称)は中小工場として製材、製麺工場などがあり合併後に双葉町二丁目を中心に民家が密集し、第三中学校が建てられた頃に住宅街が完成した。しかし、双葉町一丁目は工場施設で、山形駅西口の都市化は遅れていた。平成6年国体が終り、次なるプランとして国民文化祭の誘致が決定し、文化祭会場都市にふさわしい会場のプランが行政を中心に話合われた。その結果、駅西口の活用が討議され、現在の霞城セントラルを主体とした都市開発が進められている。平成13年1月1日に誕生するビル街のはじまりを市民が期待し、双葉町の活性化推進に役立つと考えられる。


●不審な武士を追いかけ、手練れの家臣が走り出た南追手門

 霞城公園の南口は二の丸堀の南追手門がある。現在の山形市の地図には南大手門と書いてあるが、合併前は城南町の地名は「南追手前」(昭和30年発行の地図)となっている。追手門という説話は、山形城で合意した書状を持って東大手門を通行して、江戸に向かう。しかし、書状を持った武士が信用できない場合、密かに南大手門から武芸のすぐれた家来を走らせて、三の丸の出口吹張口から追いかけて、五日町の奥州街道で成敗したという。つまり南大手門は城内の不審な武士が上京する場合、追いかける近道であるので「南追手門」という名で有名であった。
 城南町は一〜三丁目まであるが最上義光公時代は上山兵部、日野将監、 楯岡甲斐守、志村九左ェ門などの屋敷があった所で、守備体制が整っていた。
 現在の城南町一丁目の堀端は釣り人が多く、小学生たちも糸をたれて遊んでいる。水辺には鴨が多く、晩秋の土手に固まって寒さをしのいでいる。まもなく、白鳥やオシドリの棲み家となってくる。城南町二丁目の駅西のビル建設、奥羽本線の陸橋工事も終るようになると、町のすがたも大きく変貌する。


●稲荷塚、六十里越、砂塚、霊石…、 悲しい物語の地名も

 山形駅西側には歴史を振り返るといろいろな地名が見られる。南の方から稲荷塚(稲荷神社のある所)、六十里越(吹張口や五日町を通って三山行者が歩いた道で、今の三中前の道あたり)、砂塚(三の堀跡で、 堀跡のような小さな沼と壕あとと思われる高台があった)。もう一つ変った地名は霊石(双葉町二丁目)がある。第十小20年誌によれば、以前は霊石町内会という活動もあって、新しい地域社会づくりをしていた。霊石の伝承は(昭和29年版「山形市の町」)、山形の花師(紅花商人)が京都の旅館の小町娘と婚約を交わす間になった。しかし、美人薄命、両親は悲しみ巡礼しながら山形に向かったが挫折してしまった。下僕の六助は老夫婦の代りに山形へやって来た。花屋を訪れた所、花屋の若旦那と小町娘が一緒に暮しているではないか。六助と京都の両親が話しているうちに娘は忽然と消えてしまった。六助は花屋と話合って、悲しみのなかで「霊石」の碑を建てて供養した。練兵場の西端に埋められていた霊石を掘り起して町民の守り神として祀るようになったという。石碑には、文禄5年と刻まれているが、慶長元年(1596)と年号が重なり合う。昭和26年発行の山形県伝説集には年号の記録がなかったので歴史的事象より、庶民信仰を評価し、地域の文化を語りついで行きたい。
 城西町は二の丸堀に近い程、古い町屋であり西南に拡大された新興住宅街である。西の二の丸堀は戦後空堀となっていた。満水にすると水がもれて住宅地に湿気を与えるといわれていた。昭和50年ころに堀水の漏水防止工事を行って、町の発展が大きく変った。第二中学校移転後、霞城公民館、山形市総合福祉センターなど、市民に愛される公共施設がある。霞城公園西側の桜など自然景観も美しい所であるが、小路も多く、住民の協調精神を高めて災害防止に工夫している城西町一丁目の町づくりも参考にしたいものである。

≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫