霞城町
≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫
桜に包まれ歴史とロマン漂う
新しくて古いまち
●義光公と山形城
今年の5月は異常気象で霞城の桜も二分咲きから満開、すぐに花吹雪という現象、漂うロマンも短かった。
山形県内でも城跡のみの町名は少なく、市民の愛称である霞が城がそのまま町名になった霞城町、世帯数2、住民8人の町は昭和24年に誕生し、昭和42年の町名変更の時でも改名されずに認められた町である。七日町に住む老人に「霞城町はどこですか」と尋ねたら「霞城公園は知っているが、町の名前は知らん」といわれた。
桜の下で花見酒を交わすのは日本独自の文化であるが、野外パーティーというと外人たちも適当に楽しんでいる。地域のグループに歴史を楽しむ会があり、南部郷土史愛好会といい15年近く続いている会である。歴史を理解し何を語りついで行くことができるかを考える会で、花見を兼ねて霞城町を散策した。
山形城は57万石の大名最上義光公の時代に築かれた城で、当時(慶長5年頃=1600年)は天下分け目の関ヶ原合戦のころである。伊達政宗公のドラマでは陰気臭い大名になっていたが、山形市民にとって、最上公の祖先である斯波兼頼公(1316〜1379) より親しみ深い殿様である。
義光公(1546〜1614)は戦国武将としての活躍は秋田由利郡まで北上して出羽国の天下をとり秀吉と家康に仕えた大名であった。当時の戦国武将らは天下を取るために親兄弟をも亡きものにする時代で、伊達政宗公も義光公も親と争って城主となった。さらに義光公は可愛い娘、15歳になったばかりの駒姫を関白秀次公に侍妾として京都に送ったが、秀次公謀反の一味として、間もなく三条河原で首を切られた。義光公も嘆き悲しみ、山形県一の大寺院専称寺を菩提寺として建立させている(慶長元年=1596年)。
馬見ヶ崎川による扇状地末端に城を築いた大名も珍しく、山城(やましろ)から平城(ひらじょう)に変えたのも義光公の政治力であった。愛好会員と歩いた桜並木の土手は「二の堀」で東西443b、南北474bで殆ど方形であるから延長約1,850bとなり、東大手門→南大手(追手)門→西の搦手門→北不明門(あかずのもん)となっている。また、三重の堀といわれている「三の丸」は東西1,620b、南北1,550bで延長6,340bという大きな堀で守られていた。本丸は現在山形市の埋蔵文化担当により発掘されており南北133b、東西144b、延長554bで大規模な山形城が間もなく明らかにされるだろう。
●二の丸土手めぐり
山形城は歩くことによって新しい歴史に出逢える。会員30名のうち二の丸の土手を巡ったのは一割程度で、65歳の方でも「ハジメテダ!!」と喜んでくれた。土手の桜はソメイヨシノで枝振りも良く花のトンネルである。この桜は日露戦争勝利記念として植えられたもので、古城の跡を物語る朽ち果てた杉の切り株は、戦後に落雷を恐れて切り取られた跡が残されている。また、堀の水が枯れ始めたために切り倒され、旧兵舎(山形二中・三中及び母子寮に利用された)の暖房用に活用された。ソメイヨシノは大木に変り、土手の上にサクラ回廊をつくってくれる。城の中で本丸を取り囲む形で昭和47年ころから植樹され、最近では桜の園のように親子がたわむれている。二の丸の土手の西側にあたる所に変った桜の老大樹が今年も咲いていた。エドヒガンザクラで市の文化財になっている。現在は二本に分れているが、一本の樹木で根元だけの周りは7bくらいあり高さは12〜14bくらいある大木である。山形城の義光公と谷地城主白鳥十郎公の悲劇の「血染めの桜」と兄弟分で、山形城の歴史を刻んで来た桜である。
土手のまわりには桜以外の大木として、エノキとかサイカチなども見られる。特に東北部に群生しているサイカチは「再び勝つ」という縁起として城の中に必ず見られる木で、秋になると長くて大きい豆のような実がなる。この実はセッケンの無い時代に洗剤がわりに利用されたという。
郷土館(明治初期に建てられた済生館)のまわりにも、イチイやユリノキなどがあり、この場所は32聨隊の将校集会所で、第一次大戦勝利を記念して県下の市町村が一本ずつ植えたという。反対側、西北の隅は兵隊の娯楽場があり敷島公園といわれ、児童文化センターの庭のように子どもらの遊び場となっている。霞城公園には桜が約2,000本と言われているが山形の名所でライトアップの夜桜が大手門や堀に影を落す景観をPRしていきたいものである。
●土塁と石垣
霞が城という名称は福島県の二本松城(この戦場で政宗公は父を殺し勝利を得ている)も同じで、遥かに霞みがかって見える(長谷堂合戦の時、上杉藩が名付けたという)城であった。東南西北の石垣の門は義光公の時完成したかどうか不明であるが、近江国生れの石工も築城に加わったり、鳥居忠政公(元和年間=1622年)が入部してから大改修を行うようになり、長野県の高遠の石工達が山形に出稼ぎに来て堅固で美しい石垣を築いたというのが正解かも知れない。信州の高遠は伊那市の東にある町で石工たちを「黒鍬」といい石工職人として有名であった。近江国の石工たちは寺社・城の石垣を築き領主より禄高を貰って生計をたてていた。山形城の石垣には、大阪城と同じように刻印が彫られている。現在60余種あり、それぞれの石垣の所で探すのも楽しいものである。大阪城の刻印は各大名のものといわれているが、山形の場合は謎である。市民全体で考えて見れば新しい歴史が発見されるかも知れない。約2キロの花のトンネルを散歩しても新しくて楽しい発見ができる。本丸跡も発掘されて、義光公の城郭が再現される夢を見たいものである。
≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫