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香澄町

≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫

武家屋敷、軍隊−山形の歴史を物語る
舗道が整備され、彫刻と遊ぶ

 山形の生活の中でブラックユーモアの一つに「耳は十日町で眼は香澄町」(耳は遠くなり眼はかすみ遠くが見えないこと)といい合って、お互いに老いた年齢になったことを話合う。香澄町という名は明治4年(1871)に、 薄井権参事が、「霞城町」という町の声は新政府にマズイという判断で命名した町名である。生れてから128年が経過した町である。
 当時の香澄町は、小字名が多く山形の町で第一大区小一区となっている。明治19年(1887)の地籍帳には次の小字名が見られる。


●庚申堂、木ノ実小路、小鍄など、小字名の由来あれこれ

◎庚申堂・◎木ノ実小路・◎小鍄(こかすがい)・◎桜小路・◎城北・◎八幡石・○大宝寺・◎天狗橋・◎吹張・◎袋留・◎南追手前・○横町南・◎六十里越・◎霊石・元厩(もとうまや)など16の小字名があった。(◎印は現在の香澄町に入っていない。○は一部香澄町に残っている)
 以上のような山形城内の町であったが、若干の小字名と歴史的なことがらを紹介してみよう。山形城三の丸の堀で北側にあった小橋町松岩寺の裏に寛文3年(1663)に建立された庚申堂があったことから「庚申堂」(現在は錦町)と名付けられたのは、明治以降の地割図で知ることができる。南境には三の丸口の吹張があり、三の丸の堀の部分が出張っていることから「吹張口」といわれ、現在は幸町で有名なソバ屋さんの裏手になっている。中央にあたる木ノ実小路には、三の丸堀内で漆の実や米穀蔵があったので「紀の御座」といわれ、「紀の実小路」、「木ノ実小路」と称されるようになった。
 小鍄は山形城三の丸の起点、終結点であることの歴史から呼ばれている。(現在は旅篭町一丁目西側あたりになる)
 山形城主11代義光公も戦国武将として活躍し、天正18年ころから文禄2年(1592)ころまでの間に山形城を築いたと言われ、現在の二の丸堀の周囲に、重臣たちの大きい屋敷をつくり、三の丸堀から町屋に出る門のところには、一〜三人位、禄高の高い家臣を配置し、出入口を守るため低禄高の武士を住まわせたといわれている。また、守り易いよう町の出入口の広い土地に、神社や寺を建てている。やがて、元和8年(1622)に、最上家は転封された。
 鳥居忠政公(磐城国=いわき市)が山形城に入部し、三の丸の寺を町屋の外側に移転させた。七日町五丁目の光明寺、片町の大宝寺、東原町二丁目の宝幢寺(現在はもみじ公園)などがあげられる。これらの歴史は今から約380年前のことである。
 その後、山形城主は鳥居から保科(会津若松城の松平姓となる)、松平、奥平、堀田、秋元、水野氏と替わり、三の丸の武家屋敷も激しく移住が繰り返された。
 現在の市民会館・山形大学女子寮周辺には足軽長屋があり二軒一棟の家で、部屋は八、六、四畳の三部屋で、東原町に初めて建てられた市営住宅と同じ位で、屋敷だけ広かったので畑作りをした。自給型の生活であったので、茶を作り、野菜に不自由しなかったといわれている。不況型の生活のなかで傘作り、傘骨削り、婦人たちは真田紐作り、足袋、御殿まり作りをして商人を招いて卸しており、明治期の山形土産として有名であった。士族たちは手技を披露して教え合って細工物を生産して生計を立てたという。


●陸軍第32聯隊の町、歓呼の声で兵士を送る。無言の帰国も

 慶応4年(1867)5月20日元香澄町住人水野三郎右衛門が長源寺内で、刎首(ふんしゅ)の刑を明治政府から執行されて、山形の文明開化が開花した。9年8月21日、山形県初代県令が執務した所は水野藩邸で香澄町である。明治7年、三の丸士族が身分解放されて、山形に香澄町が誕生した。藩校 「立誠堂」も5年に開放されて一般の子弟の入学を許可し、山形の教育は香澄町から始まったと考えられる。
 しかし、近代化に伴って士族たちが町人の商取引きになじまなかったので、官吏になることが多かったと伝えられている。県庁は万日河原に移り、行政機関が旅篭町の方に移転してしまった。士族の古い習慣が文明開化の流行を受け入れなかったのかも知れない。その代替として、明治29年3月14日、旧山形城を第八師団管轄下にゆずり、後に陸軍第32聯隊となる。東大手門前から南大手門周辺は軍用地となってしまった。当時の市民は大きな誇りを持ち、昭和20年まで続き、歓呼の声で送り、悲しい白木の箱を迎える。女学生が列を作っていた香澄町通りは現在「美術館通り」となって彫刻と遊べる町に変ったが休んでいる人が少ない。


●明治34年、山形駅が営業開始 。 近代化は岡蒸気 に乗って

 明治の近代化は「岡蒸気」から始まる。 東海道線ができ、明治20年には仙台まで路線が敷かれた。山形の商人達は仙台まで出かけ上京する人も増加した。山形まで鉄道を敷くために、二井宿から、 会津若松からなど申請したが、明治27年に福島―板谷峠―米沢―山形ルートが決定し、明治34年4月11日、上町寄りに仮の駅ができて営業開始となった。しかし、山形駅は不便であり、三の丸堀の土手を崩して現在の場所に盛土した後に山形駅が誕生し、天童、楯岡まで延長されるようになった。(同年8・23)
 明治38年9月14日、奥羽本線全通、鉄道による物資輸送は香澄町の士族を大きく変え、新道を作り十日町と共有しながら駅前商店街として発展するようになる。呉服屋、せともの屋、旅館、桐紙製造などの他、近代的なガス会社、煙草専売公社が町内に建設された。大正11年に左沢線、昭和12年10月には仙山線が生れ、高等女学校二校、女子師範などで美しい学生街と変貌した。桑畑、士族の菜園などは、すべて住宅街となり戦後は七夕祭りで香澄町を賑わした。
 戦後の町名変更から一〜三丁目と小さくなっているが、古い歴史を持つ日枝神社、屋敷神のある旅館や市民会館などの文化施設がある。最も特徴的なのは彫刻のある「美術館通り」。休み石があり、 春〜秋の美術まつりを企画したり、街頭音楽祭などもできる通りである。美しい財産を花で飾り、愛嬌のある町を歩きたい。


≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫