小姓町
≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫
さまざまな歴史をたどった歓楽街
藩政時代はお小姓衆の屋敷
●県内きっての歓楽街、かつては100人を超える芸者衆が
山形を訪れた友人に、古い歓楽街を案内することになって、大門のある小姓町を訪れた。しかし、現在の小姓町は大きく変化し、大門口は、街自体が公園のように道が化粧され、小さなビルの入り口には、多くのスナック・バーなどが高くつまれた形の夜の情景であった。歓楽街として楽しませてくれた小姓町は、人影も少ない、健康的な飲屋街になっている。前に訪れたことのあるスナックで美人のママと昔を偲びながら、友人とともに若かりし頃の山形の町を語り合った。小姓町という貸座敷料理店の多い所は県内一で、明治末の市北大火によって、旭銀座通りに、のゝ村・四山楼・八千代・千歳館などの小料理店が生れ、さらに「花小路」へと発展、戦後のバブル期には、山形駅前の「紅花通り」の繁華街と、この三ヵ所が山形歓楽街の代表となっている。
県内外の粋な友人と話をすると、山形を懐かしく想って、三つの町の何れか一つを上げる。それで、その人の年代がわかるのも楽しいものである。山形市内の粋な文化人田中大老によると、昭和2年頃、 芸者置屋が至る所に生れて、約120人の芸者が活躍した。昭和初期には「全国産業博覧会」などが開かれ、県内の各市町から出稼ぎに来た芸者も見られたが、市内の芸者たちは芸達者な人が多く、現在では、山形の芸ごとの花柳界には秀れた人が多く、独立して日本舞踊の師匠として名を挙げたたくましい女性が多い。
●「馬上町」 もあって、ここで小姓衆が乗馬の訓練をした
現在は小姓町というと「芸者町」という声が聞かれるが、歴史を逆のぼると、最上義光公の時代は小姓衆の屋敷がある町であった。武家のなかで、小姓衆とは殿様に直接仕えるガードマン・市中の警備にあたる役割を持っているので、小姓町東南部に住む武家屋敷は「同心町」と称されていた。また、小姓町の南四辻あたりのことを「御蔵町」(みくらまち)と呼んだ事もあった。小姓衆は若年寄の下で城下の巡回見張り役をつとめる事例も多い。小姓町の大門を行くと広い道路になり、クランク型に曲るが道幅が広い。この裏門通りのことを馬上町と言うが、小姓衆が乗馬訓練をしていた。(「松木枕」参照)南北に走る小姓町通りの西側の民家は「桶町」の一部で職人の屋並もあったと伝えられている。
小姓町の明治以前のすがたは武士の住む町であったことを証明するものは「東前稲荷神社」を訪れると理解できる。現代より約340年前の寛文4年、山形城主松平下総守忠弘公が建立した稲荷神社で米倉を守り、附近の農民の米作りの成功を祀る神社である。街の安全と福寿を祈念した神社で、昭和54年ころに再建する時、境内から小姓町と刻まれた大石が掘り出され、神社前に置かれている。
第五小学校から西に向かうと、近江屋という古いそば屋がある。蔵座敷を利用して美味しいそばを食べることができる。この三辻には山形城主二代直家公が建立した「大日山正福院新山寺」がある。4月29日が祭日で子どもを含めて多くの人びとで賑わう祭りが開かれる。真言宗の寺で、義光公の長谷堂合戦の勝利を祈るために城下の法印を集めたと伝えられている寺院である。また門前には、雷神・庚申塔・六地蔵・雨乞い石などが祀られている。多くの石碑が見られるが、注目したいのは、「なかたち石」という石碑である。文久3年(1863)水野忠精公の時に建てられた石碑で、東京の神田に見られる碑と同じで、江戸庶民文化を取り入れたものと思われる。市民からも大切な文化財であることを知って欲しい。「なかたち石」は四角柱で、昭和56年ころに新しく建てられたものである。古い石碑は風化して、郷土史家武田好吉(故人)の努力で以前の碑と同じように建てられたものである。碑の右側には「おしえる方」、左側には「たづねる方」と刻まれている。失(う)せもの・落としもの・悩みごとなどを左側に貼っておくと、「おしえる方」の方には解決する人があらわれたり、紙に書いたものを貼っておくという粋な庶民信仰の心が伝わってくる碑である。
●一芸に秀で、ベートウベンの「第九」を独語で歌った芸妓
山形城下町は、城主が転封されても、出羽内陸の一大経済都市で町人の経済的な将来を見通す見識が高かった。安政2年(1855)に発行された「東講商人鑑」(発起人江戸湯島天神表門通り 大城屋良助)に加入した町人が80軒、旅館6軒、行者宿8軒が記されている。特に旅人は東講の鑑札を出せば、手形同様の扱いで銭支払いもする心配がなくなる。その結果、旅人の奪い合い、芸者のサービスなどで町人のもめ事が増加した。幕末の城主秋元公は、旅篭町と八日町の中間で、比較的空地の多い、しかも七日町や十日町に近い小姓町に芸者置屋を建てることを許した。そこで困ったのは、三山詣りの出口であった賑やかな吹張口・下条口の茶屋・料理屋などで、高級な料理屋が移転するので悩まされたといわれている。
明治維新、日本の近代化を目指す政府は、人身の売買、譲渡などを禁止する布告を明治5年に公布した。これで、娼妓・芸妓などの年季奉公人が解放されるようになった。湯女・遊女渡世から解放され、芸妓置屋とか貸座敷などといわれるようになる。止むなく芸妓のくらしを続ける女性は、期限つきの鑑札が明治8年に発行された。
初代三島通庸知事になってから芸妓屋の移築も半強制的にすすめられた。同時に芸者の教養・礼儀・舞踊などを向上させるために、小姓町玉梅女学校をつくり、学業を高めた。政府側から視察に来形した際は、歓迎の祝詞を奉読させたという。女学校では国語・算数・地理・修身などが必須課目で、高等部では独語を習い、ベートウベンの第九を仮名をつけて覚えて合唱した。芸妓は、失業士族の娘なども多くいたようである。(山形新聞参照・明治ニュース事典参照)
現在は小姓町に児童公園があり、大門通りには若いグループが語り合う健康的な美しい町になっている。現在の不況の風を早く取り払って、賑やかになって欲しい。
≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫