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職人町

≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫

職人のくらしを優遇した義光公。今も伝統の技を受け継ぐ。

 県都山形の町を紹介するとなると各町の大きさ、隣町との共通した特徴もあり、歴史的な背景などを調べると、一つの町を紹介するだけでまとまらない場合がある。このたびは、テーマを「職人町」の歩みと現状を見ることにした。


●職人町の役割は、侍や町人へ物資を円滑に供給すること

 山形城主最上義光公(1546〜1614)は文禄2年(1593)に城下町を築いた。馬見ヶ崎川のつくった扇状地末端に城を築き、周囲約10キロの三の丸堀をめぐらし、外側に町人町を設け、市日をきめて街の発展を考えた。その外側に町の発展を目指すために職人町を設けて、伝統的工芸職人のくらしを優遇し、手技の向上をはかった。
 職人町の性格は、侍や町人のくらしに物資の供給を円滑にする役割を持つ。つまり、生活必需品をつくることである。また、職人たちは物産を移出して外資を獲得する努力をしなければならなかった。そのために、城主は諸役免除を与え、御免町といわれてきた。
 火を使う鍛冶師や銅冶(どうや)師を、山形城下の中央(文翔館前東西の道路あたり)を流れていた馬見ヶ崎川の北側に移住させたことは、今の工業団地づくりに似ている。
 鉄砲町や弓町などは外敵防止を兼ねて、城下町の出入口に定めている。八日町などの旅篭町のある町、寺社の多い所には大工町(二日町南)がつくられているのも城下町の計画に合致したといえる。


●檜物町(曲師町)、塗師町、桶町、 銀町、蝋燭町、材木町

 山形市中央公民館前から東に向う道があり、今は舗道に星座が埋められて楽しめる通りになっている。100メートルほど歩くと南に向う一方通行の道があり、ここから義光公のつくった職人町がある。
 最初は檜物町―俗に曲師町(まげしまち)―といわれることもあるが、マゲワッパ・おひつなどを作る人たちが住んでいた。檜や杉板をうすく削って曲輪を作り、塗師町へ運んで朱・黒を塗って仕上げる。檜物町の職人の歴史は定かでないが小椋(おぐら)光吉というひとが定住するようになってから始まったと伝えられている。小椋姓は木地師・杣人(そまびと)で全国の林野を歩き、義光公時代に定住することが許されたものと考えられる。幕末の「風流松木枕」(市史資料64号) によれば「この所より檜物町といい、杓子・手桶・たばこ盆・まげ物をつくる。四六時中鉋・鋸切の音たかく、手早いことに驚いた」という。
 檜物町の南には桶町があった。現在では過去形になり、昭和40年頃は佐川・大串・斎藤桶屋などが残っていたが、現在は見ることができず、昔を偲ぶ石塔が建っているだけである。昭和46年に霞城公園内に県立博物館が開かれて、当時、手仕事の道具が不足していたので、桶町を訪れた所、佐川が廃業となるので、大量に博物館に納めることになった。斎藤桶屋から、手仕事のぬくもりを感ずる桶や酒樽を寄贈して貰った。博物館に展示されている桶作り道具は山形の桶職人の歴史といえよう。
 山形の気候は杉材をよく育てる環境であり、柾目の美しい桶が手仕事によって仕上げられた。義光公時代より最も長く続いた職人町であった。元禄10年(1697)には屋敷が39軒、職人は約20人であったが、1960年頃は職人10人である。昔と変らないのは、職人のいる店の前で子供たちが熱心に見ていた。
 幕末になると桶町には町人町の賑やかな商売を知り、魚屋が進出するようになった。最上川から運ばれて来た干物や塩魚販売に対抗して、仙台方面から背負子が運ぶ生魚を中心に売ったので大繁昌したという。水産物を扱う店では手桶、樽などが利用されたので桶職人と共存できたと考えられる。
 桶屋職人が作ったものは手桶・半切・げんば桶・おかもち・酒樽・角樽・大酒造樽など、明治以降は風呂桶が大量に作られた。大きなものは醸造用の味噌・醤油樽などを作り、大勢の工人が出入りして賑やかな職人町であった。小物づくり職人は隣の曲職人と対抗し、最終的には明治初期の株仲間禁示令によって桧物職人は分散させられ衰え、桶町が更に発展した。


●しかし、なかには受け継ぐ若者がいなくなり、転廃業も

 塗師町・銀町は義光公時代に職人町として築いたものであるが、比較的面積が少なく、元禄年間は22軒、銀町は借家を含めて36軒であった。元来、漆塗りという産業は大量生産を行う商売で、漆器商店が直接経営する企業体である。山形城下でも、十日町の長門屋が中心で、職人町の塗師たちは城内に納める塗り箸を100本(膳)を納める程度であった。しかし、蒔絵をつくる職人もおり、時代の流れに沿って山形仏壇の塗師に変り、山形仏壇を発達させた町であった。
 銀町も同様に、義光公時代は金銀細工師がいたが活躍の状態が不明で、最も盛んに行われたのが、秋元凉朝公(1764〜1842)の時代である。秋元公は、埼玉県の川越城から、山形城へ転封した大名で山形城を一番長く支配した。川越市は江戸に近く、金銀細工の流行を体験しているので、山形に入部してかざり職人の向上につとめたという。
 義光公は最上蝋燭をつとめて宣伝し、原料は他藩から取り寄せてつくらせている。徳川家康に最上蝋燭を賞讃され、特産物として販売することにつとめた。秋元公時代も30戸程仕事をしており、幕末まで、ウルシ蝋燭を作っていた。明治33年まで電灯がなく、アカシ町(蝋燭町)には夜明け方より消費者が行列をつくったという。現在はアカリの伝統を受けつぎ、燃料小売店などがあるが、江戸時代の史跡は成田山神社が物語るだけとなり、信仰厚く守られている。
 材木町は、最上時代に木町と呼ばれ、十日町東側の通りを占めていた。現在は材木置場もなく、町名を残すものは「木町ハイツ」ぐらいで「芳紅庵たかはし」の北に見られる。
 材木町の南に約200年も続く石工職人がいる。今も、内陸の良い安山岩系の石を原料にして、東北各地に販売している。山形の伝統工芸の街には職人の心と故郷のぬくもりがある。

≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫