山形観光情報専門サイト WEB山形十二花月


七日町

≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫

明治以降急速に発展、花笠 が舞う。県都の目抜き通り。

 山形城下町には一と九の市日を除いた市日の地名が町名として残されており、明治以降になって急速に発展した町が七日町である。
 江戸時代は、八日町・十日町・旅篭町が中心になって賑わっていたが、初代県令の三島通庸みちつねが新県庁(現在の文翔館)をつくってから、客の賑わいが七日町に変って来た。現在は車の一方通行で不便であるが客足があまり変化していない。しかし、七日町の町区分も大きい町区で、東部四〜五丁目を中心にウォッチングした。
 東北四大祭りの花笠まつりも全国に知られている。その後に「お盆」行事と続くので観光客・帰省客が七日町を賑やかにしてくれる。
 花笠踊りは戦後に定着した祭りであるが、以前は旭銀座通りには七夕飾り、盆の市(旧暦の7月7日〜10日ごろにお盆の提灯や供花・お盆用の土産品)などのお中元(7月15日が中元の佳節日)を売る祭礼が七日町大通りで開かれた。


●街並みが一新した大通り。 かつては紅花取引で賑わう

 子ども達は赤い提灯を買って貰い、お盆の日に美しい浴衣を着て、姉さんと手をつないで寺に向う姿が七日町の門前に溢れていた。いまでは自動車が一杯、墓まいりは年老いた夫婦だけ……家族そろわぬ現代社会に一抹の不安を感じる。遠く離れて暮らす兄弟親子が一緒に墓詣りをして、幼馴染と方言で語り合う楽しみは先祖が導いてくれると思うと故郷も良いものだ。
 七日町大通りのアーケードが取り払われた。道を歩いているとビル街に青い空が浮かんでくる。電柱もなくなったし、雪もない道、客がどっと増えたように思う。購買力を高める策は商店主側の問題である。
 明和4年(1767)に山形城に埼玉の川越城主秋元藩が転封されることになった。幕末の山形城下を知るために、「山形経済志料」は大正10年当時の山形商工会議所副会頭渡辺正三郎が主唱して作られた冊子であるが、この本を熟読しないと山形の歴史がわからない。この本によると、秋元公は山形は寒くて、江戸から遠い、みちのくで山ばかりの古ぼけた城下町ぐらいの知識であったらしい。それで、奉行を務めていた山瀬遊圃(学者)を派遣して山形城下を詳しく調査させた。その結果、詳しい見取図と町、寺社に至るまで歴史、地理、風俗にわけて報告されているのが「山形雑記」である。この本には七日町の賑やかな紅花市と商人と町人の取引風俗が面白く記述されている。紅花を作る人びとは湿った紅花餅を中に入れて目方をゴマカスようだ。七日町の町人は生花を買って裏庭で紅餅を作って売るので商人同志の信用が大事で、七日町の町人の商いをほめている。初市と紅花市は高く評価しているのも面白い。


●その昔、区画整理が行われた元三日町かいわい

 現在の中央公民館がある「アズ」から東方に行く町を元三日町という山形っ子がいる。この町は義光公が三日町として市日が開かれるように作った町であり、200メートル程東に行くと、クランク型になって大龍寺の南側を通り片町に変る。最上家の世襲争いから元和8年(1622)に鳥居忠政公が磐城平から移って来た。鳥居公は先祖の墓を山形城下に持って来るために光禅寺を今の三日町に町民を含めて移転させ、その跡に曹洞宗の長源寺を建立し門前を長源寺と呼ぶようになり、移って残った道を「元三日町」と呼ぶようになった。現在の町は山形市で最も美しく改修された街路であるが、人も楽しみたいが車が通るので、人通りも少ない感じがする。
 片町は本久寺・大龍寺などの寺があり、片側だけに町家があったので片町という名が生れた。さらに東側に行くと浄土真宗心縁寺口あたりからクランクになり真言宗地蔵院がある。この道は地蔵院口であるので、乗馬しているものは「下馬」しなければならなかった。しかし、鳥居忠政公は「田舎の寺など下馬するものか」と言って乗馬のまま通行しようとしたところ、地蔵院屋根の宝殊からキラリと光がでて鳥居公の眼にあたり、落馬、怪我をしたといわれている。今の片町は明和頃から町家が両側に建てられ、商人宿、米屋なども建ち現在ではアパートのある町である。


●民心の安定を願って建立、斯波兼頼公が眠る光明寺

 七日町には寺が約10ヶ寺見られ大通りより東側に多く見られる。緑町の専称寺附近を愛称として寺町と呼ぶが、正式には「寺町」という町名がない。第五小学校西側に光明寺という時宗の寺がある。この寺は、延文元年=正平11年1356)奥州(宮城県中新田町)大崎より羽州に移った斯波兼頼公が葬られている。山形に来た兼頼公は頼れる人もなく、宮町の円応寺附近に住み、やがて山家河内守の娘と結ばれて山形に永住するようになった。その後、室町幕府が生れ、北朝方が勢力を得ると兼頼公も山形城を築き、民心の安定をはかるため寺社を建て、自ら時宗の修行僧として光明寺(現在の東大手門北東)をつくり、後に現在の地に移された。光明寺には大人の背より高い墓碑があり、本堂には兼頼公の木像が安置されているので、お寺さんに声をかけるといろいろな歴史を話してくれる。


●アンティークな街灯が異国情緒を醸し出すシネマ通り

 現在の町の姿は大きく変り街を歩いていると、昔の映画の名前も知ることができ、街灯もアンティークで楽しいものである。この道は明治15年以降につくられた道でほとんど長源寺領であった。戊辰戦争(1869)の時、山形の町を救うために、弱冠26歳の青年水野三郎右衛門が斬首され、長源寺に葬られた所である。七日町は山形を守った人びとや、市の発展の土台となっている町である。

≪山形商工会議所発行『山形町細見』より転載≫