観光情報データベースDATABASE

笹谷峠

【東沢地区振興会発行「東沢の歴史散歩道」より抜粋】

 笹谷街道(古くは海道とも書く)は906mの峠の難所を越さなければならないが、「みちのく」の国と「いでは」の国を結ぶ最短距離のため、古くより官道(延喜式)として、また、生活物資の運送路として栄えてきた。ただ、明暦2年(1656)羽州街道の小坂通が整備されるにしたがい、江戸幕府は羽州街道を参勤交替の道に定めたため一時衰微した。しかし、一番大きな隘路(あいろ)だったのは支配領主の交替が激しく、道普請(ぶしん)の人足確保にも支障を来すからでもあった。
 「ささや」という語源(ごげん)は笹の葉が生い茂っているところから出ているのかもしれないが、悲恋の伝説がより一層の花を添えている。
 千歳山の松の精(せい)である名取太郎という若者と、あこや姫が夜毎の逢瀬(あうせ)を楽しんでいたが、或る年、名取川(仙台市を流れている)の橋が大洪水で流されたので、その橋を架換えるため千歳山の松が切られることになった。そこで名取太郎は姫の許しがなければ絶対に動かないというので、姫は切られた松に手を触れながら笹谷峠まで送り、ここで最後の別れをささやきあった。それで「ささやき峠」から転化して「ささや峠」になったという。
 この峠の陸奥国側には仙台2代藩主伊達忠宗の命により建てられた十一面観音を祀(まつ)る仙住寺があって、旅人の救助に当った(明治維新後に廃寺、十一面観音は笹谷部落へ)。また、出羽国側には谷地城主白鳥十郎の姫が住んだ避難所の尼寺助け庵があったという。
 現在も平坦な峠の旧道添には遭難した人夫達の供養のためという、六地蔵が立てられており、敵討(かたきう)ちの物語りを秘めた生地蔵や、二百万遍供養碑、三界万霊塔等多くの石造物が建立されている。
 吾妻鏡(あづまかがみ)(鎌倉幕府初期の歴史書)では、後三年の役のとき平泉藤原方の大将西木戸国衡(にしきとくにひら)(藤原秀衡の長子)は大関山(おおぜきやま)(笹谷峠のこと)を越えて出羽国に逃げようとしたが果(はた)されず、途中大高宮(現、柴田郡大河原町)辺りで討たれたとある。また、江戸時代初期秋田佐竹藩の銀山奉行(院内銀山)梅津政景(うめつまさかげ)は慶長19年(1614)から15年間に銀の運送や藩主の参勤交替随行のため、10数回江戸往来をしたけれど、殆んど笹谷峠を利用している(政景日記)。
 なお、峠の車馬道(現、国道286号線)が開通したのは、山形県側が明治26年(1893)宮城県側は同28年である。

ひとつ前のページへ


Page Top